2009年2月25日水曜日

モーターサイクルダイアリー その3

ミニギリシャのようなアメッド
一方通行が多く道が分かりづらいアムラプラの観光は諦め、一路アメッドへ向かう。心配していた雨に降られることもなく、順調にアメッドに辿り着き、見当をつけていた宿を探す。断崖絶壁に作られたその宿は、どの部屋からも海が見渡せる素敵な造りである。私はすっかり気に入って、ここで私のバケーションを過ごすことに決めた。
シーズン外れのアメッドは人も少なく、ひっそりとしている。ミニギリシャのようなこの海辺の街で、私はようやく、食べて、寝て、泳いで、読書する以外は何もしないバケーションを実現したのだった。

部屋からの眺め

青い青い海が見渡せるガゼボで読書するのが私のお気に入りだった

2009年2月24日火曜日

モーターサイクルダイアリー その2

古色豊かなバリ・アガの村 トゥガナン
翌朝宿をチェックアウトし、チャンディダサ近郊のトゥガナンというバリ・アガの村を目指す。ダブル・イカットという、染めて織り上げるのに膨大な時間のかかる織物や、棘のあるパンダナスの葉で男たちが戦い合う独特な祭礼で知られ、古いバリの姿を残すと言われる村である。入口で寄進をすると、村の人が案内してくれる。以前訪れたバンリプランという村のように、伝統的な方位観に基づいて整然とレイアウトされている。現在バリで広く行われているヒンドゥー教はジャワ島マジャパイト王朝によってもたらされたものだが、バリ・アガのヒンドゥー教はそれ以前に入ったヒンドゥー教だそうだ。

バリ・アガの子どもたち

アムラプラでピンチ
さて、ここまでは順調に来たが、この先でピンチが起きた。
トゥガナンを出て、元カランアサム王国の都アムラプラへ向かう。ここで現金を調達し、街を観光したら、アメッドへ向かおうと思っていた。ところがこのアムラプラという町、やたらと一方通行が多く、道が分かりづらい。国際キャッシュカードが使える銀行のATMをようやく見つけたと思ったら、なぜか私のカードが使えない。仕方なくATMがあるという大型スーパーマーケットを目指す。ところがこちらは現金を切らしていて引き出しができない。
窮地である。
この町に他に国際キャッシュカードが使えるATMはないと言うし、ましてやアメッドのような小さな村には絶対にない。私の泊まるような中級以下の宿にクレジットカードが使えるところはない。困り果ててもう一度最初の銀行にたどり着き、長蛇の列に並んで再度ATMを試してみるが、やはり私のカードは使えない。カウンターでどうにかならないか泣きついてみると、どうにもならないという。一番近いところでもスマラプラまで行くしかないと言うではないか。スマラプラまで戻っていたらとてもアメッドには行き着けない。それならウブドに帰るも同じである。ああ、私のバケーションはしょぼい熱海1泊で終わるのか、と悲しい決意を固め、肩を落として走り始めた。
道すがらATMのなさそうな銀行があった。ここまで来たらだめもとと一応聞いてみると、ここにはないが、スーパーマーケットにあると言う。ああ、そのATMならさっき行ったばかりですがだめでした、と言うと、いや、たった今しがた現金をいれてきたところだから今は使える、と言うではないか。ほんと?ほんとに?と何度も念を押し、ちょうどそのスーパーに向かうところだと言う人の後をついてスーパーまで戻った。
半信半疑で試してみると、今度は本当に現金が引き出せたのである!ああ、光り輝く現生よ!これでアメッドへ行ける。私のバケーションはしょぼい熱海一泊で終わらないで済む。神様ありがとう!

2009年2月23日月曜日

モーターサイクルダイアリー その1

2ヶ月ほどの間、突然の一時帰国を含め、怒濤の忙しさだった。中距離走を全力疾走するようなその日々がようやく終わり、伸びきったゴムのようになった私は、とにかく何にもしない休暇を取ることにした。
当初の計画ではロンボク島沖のギリと呼ばれる小島で、食べて、寝て、泳いで、日本語の本を貪り読もうと思っていたのだが、前日になってバスとフェリーの直行便が船のメンテナンスのために欠航していることが分かった。他の方法で辿り着くこともできたのだが、何となく気がそがれてしまい、計画を変更することにした。一度やってみたいと思っていたバイクでのバリ島東海岸への旅を決行することにしたのである。

出発
雨期なのでいつ降られるか分からない。雨具を積んでとにかく行けるところまで行ってみることにした。スマラプラまでは遠出の練習で行ったことがあったが、それ以東は初めてである。まずはロンボク島へのフェリーが出る港町パダンバイを目指す。そこから海岸線に沿って北上し、チャンディダサという海辺の街へ着いたのはお昼過ぎであった。初日はいったんそこに宿を取ることにした。

ビーチのないビーチリゾート チャンディダサ
チャンディダサは、昔は美しい浜辺を持つ静かな漁村だったらしいが、1980年代以降の過開発により建設用材となる珊瑚礁が取り尽くされ、それにともなって波が浜辺を削り取ってしまい、その後珊瑚礁の採取が禁止されてからもビーチはなくなったまま、という信じられないような悲しい歴史を持つ海辺の街である。バリ東部に点在するバリ・アガと呼ばれる先住民の村に伝わる昔話などを読むと、昔はどんなにか美しかったのだろうと想像されるが、残念ながら今はあまり美しくない。浜はないし、立ち並ぶホテルも寂れていて、ちょっと熱海のようである。


古い神社が昔を偲ばせる

2009年2月18日水曜日

シンクロニシティ


最近妙に友人Aくんのことを考える。今日こそメールしよう、と思っていたら当のAくんからメールが来た。
「リエ、元気ですか?最近妙にリエのことを考えます。」
以心伝心。ここまではよくある話である。ところが、よく「ない」のはこの後であった。
「僕は今フィリピンのマニラにいて、来週バリに行こうと思っています。リエは今どこにいるんだろう。ヨーロッパ?南米?アメリカ?もし東京にいるのなら、帰りの便が東京経由なので、数日東京に寄ろうかと思うんだけど。」
何だって!?マニラにいる?バリに来る?
私はもちろん即効で返事を書いた。
「私は今バリにいるんだよ!おいで!」

この話には伏線がある。
フランス語圏カナダ人のAくんとは2年前に大阪の友人宅で知り合った。モントリオールの大学でダンスと演劇を専攻する学生であり、ストリートパフォーマーでもあるAくんは、そのときアジアを旅していて、大阪の知り合いの家に泊まっていた。私はちょうど広島での友人の結婚式を兼ねて山陽地方を旅した帰りに大阪に立ち寄り、同じ大阪の友人宅に泊めてもらった。つまり、私たちは寛大な大阪の友人宅の居候同士だったのである。
とてもオープンな心を持つAくんとすっかり意気投合し、ちょうど東京に向かうところだった彼と、東京に帰る私は、一緒の高速バスに乗り、3人暮らしの私の下宿先に居候として連れ帰った。翌日は近所の神楽坂を案内し、飯田橋の交差点のところで靖国神社に行くという彼を見送って別れた。

時は流れて去年の夏、Aくんはストリートパフォーマンスをしながらヨーロッパを旅していた。私も当初の予定では夏はヨーロッパの予定だったので、再会を約束していたのに、私の東南アジア滞在が予想以上に長引き(そして今に至る)、かなわなかった。そのときAくんは、今年初めにLAに転居する予定だから、再会は中米か南米あたりだね、と言っていたので、私はてっきりAくんはLAにいるものと思っていたのである。それがまさかマニラに来ていて、翌週バリに来ようとは!

果たしてAくんはウブドへやってきた。デンパサールからベモ(地元の人が利用するオンボロの乗合バス)に乗って。そして私たちは、飯田橋の交差点で別れて以来2年振りの再会を、ようやくここウブドで果たしたのである。
私のバリ芸能への愛と情熱を分け合うのに、Aくんほど恰好な相手を他に知らない。私は大喜びでお気に入りのグループの公演に、Aくんと、Aくんがデンパサールで知り合ったという、これまたオープンな心を持つスイス人のSくんを連れ回した。その公演のどれもがいつもより素晴らしく、これはきっと、いいものを見せたいという私の気合いがグループの人々に伝わったに違いないと、一人私は悦に入った。

さらに、私はジャワ島ジョグジャカルタでお世話になった日本人IさんのゲストハウスへAくんを送り込んだ。Iさんはインドネシア語も堪能だが、フランス留学経験もあってフランス語も堪能なのである。私がファンクラブ副会長を務める、Iさんのお抱え運転手で生粋のジョグジャ人Nさんとも、Aくんはすっかり意気投合したようで、兄弟のようだった、と後日Iさんから電話でご報告をいただいた。

「私はなんだかAくんが息子みたいに思えるんですよ」と言う私に、
「あら私もなんだか孫ができたみたいだったわ」とIさんは言って、二人で笑った。
日本人の母と祖母を獲得したAくんは、今頃モントリオールの空の下でクシャミをしていることだろう。