みんな顔見知りで、会えば気軽に声をかけてくれた。
もうすぐ取り壊しや新しい建物の建設が始まり、日中はうるさくなるのだろう。
バリと言えば常夏と思っている人が多いのだが(まあ常夏と言えば、常夏なのだが)、実際には雨季と乾季が半年ずつで、乾季には結構冷え込む。
と言っても、私がここに住み始めてからの3年間は、雨季と乾季の境目がはっきりせず、雨季でも雨が降らなかったり、乾季でも雨が降り続いたり、割合だらだら年中暑かった。
が、今年の乾季は寒いのである。
どれだけ寒いかというと、朝晩はフリース、首にはショール、昼でも長袖、夜は足湯という按配。
最初の頃は、このキリリとした涼しさが温帯育ちの身に懐かしく、寒い寒いと言って喜んでいたが、なんと3度も風邪を引くに至って(今3度目。飲んでもいないのに二日酔いのような頭痛が続き、喉の痛みが気管支に下りてきて、咳が出る)、「いつまた暖かくなるのかな」と気弱な考えが頭をよぎるようになった。
まったく人間とは、ないものねだりなものである。
それがここ数日、朝夕の冷え込みがぐっとゆるまり、日中「暑い」と思うようになった。
今日は久しぶりにTシャツで外出しても、寒くなかった。
よく晴れて、からりとした、気持ちのいいお天気である。
バイクも整備してもらったし、買い物の帰りに遠回りをしてみたら、田んぼで凧揚げ大会をやっていた。
福島の子どもたちは、夏だというのにマスク、長袖、長ズボンで、外で遊ぶことも、プールに入ることもできない。
思い切り深呼吸することもできない。
先日帰国した福島のMちゃんの故郷も、ウブドのような田園地帯で、きれいな場所がたくさんあるのだそうだ。
ご実家でお米を作っているので、Mちゃんは生まれてこの方、一度もお米を買ったことがないという。
自分の家で作ったお米を井戸水で炊くとどんなにおいしいか、Mちゃんは聞かせてくれた。
私がマイケル・ジャクソンくらいお金持ちだったら、福島の子どもたちをバリに招いてあげられるのに。
今は祈ることしかできない。
どうか除染の技術が見つかりますように。
もとの自然の豊かな福島が戻ってきますように。
福島の子どもたちが思い切り深呼吸をして、外で遊べるようになりますように。
ちょっとかわいい電柱の貼り紙
7月末からシンガポール行きや、懐かしい友だちの来訪が相次ぎ、長らく更新をお休みしていましたが、今朝福島のMちゃんが2週間の滞在を終えて帰っていきました。折しも今日のウブドは盛大なプレボン(王族の火葬の儀式)一色。ということで、心機一転、更新を再開したいと思います(過去に遡って更新したりしますが、悪しからず)。
まずはプレボンのレポートから。
今まで経験した中では最も盛大なプレボン。
1ヶ月くらい前から、ウブド王宮の脇の道では、巨大な、それはそれは立派な黒い牛の張り子と、バデと呼ばれる9層もの高さの塔(高さ24メートル、重さ10トン!)の建設(と呼ぶにふさわしい規模なのである)が進んでいた。
当日の今日は朝から交通規制が敷かれ(混雑に巻き込まれないため、空港に向かうMちゃんは随分と早く出なければならなかった)、巨大な張り子と塔が電線に引っかからないよう1日停電になる。学校も早朝だけでおしまいになる。
美しく着飾った遺族の女性たち(たぶん)
ウブド王宮から火葬場までの1kmほどの葬列行進はお昼過ぎにスタートする。沿道には人だかり。物売りも稼ぎ時とばかりに朝から大勢やってくる。楽隊や、故人の遺品(と思われる)を運ぶ婦人たちや、お輿に載せられた稚児や、槍をもった戦士たちに先導されて、あの巨大な黒い牛の張り子と塔が姿を現す様は壮観である。その巨大な構造物を男衆が気勢を上げて担ぎ、200メートル置きぐらいに次のグループに交代する。
楽隊の先導
戦士
お輿に載せられた稚児
張り子と塔がその偉容を現す
暑さと疲れで火葬場まで行く気力が無く、張り子と塔を見送ったら早々に退散した。
雲を突く9層のバデ
福島から来ているMちゃんが、Nさんのセッションを受けるというので、興味津々、立ち会わせてもらった。
Nさんは日本で言えば「霊能者」ということになるだろうか。
バリには「バリアン」と呼ばれる人たちがいて、呪術、民間医療、占卜などを請け負う。シャーマン、ネイティブアメリカンのメディスン・マン、沖縄のユタ、青森のイタコ、平安時代の陰陽師に共通する存在と私は思っているのだが、地元の人たちには身近な存在で、診療費は心付けということになっている。
一口にバリアンと言っても様々だが、Mちゃんが泊まっている宿の日本人オーナーAさんによれば、Nさんは3月11日の午前中に、日本に大きな地震と津波が来ることを言い当てたと言う。
さて現れたNさんは、飄々とした風貌のお兄さんであった。
バリ人のご主人と結婚していてインドネシア語もバリ語も堪能なAさんが通訳に入ってくれ、セッションが始まる。手相を見るでも、水晶玉が出てくるわけでもない。「どんなことが気になりますか」といったふつうの会話をするだけなのだが、Mちゃんの抱えている健康上の問題に対して、超音波診断のように問題のある箇所を言い当て、薬草を使った処方を教えてくれた。
放射能の問題について相談していたら、「家の周りに竹炭を置き、マンゴの木を植えるとよい」と言う。何だか知らないが突然そういうビジョンが降りてきたのだそうだ。Nさんいわく、マンゴの葉は汚いものを集める性質があるので、他の木の葉よりも汚れているという。竹炭はいいとして、マンゴの木は熱帯にしか育たないと思うけど、調べてみます、と約束した。
他にもいろいろな話が出たが、Mちゃんの個人的なセッションなので、詳しくは書かない。
最後はマッサージのような施術に入り、Mちゃんが自分でマッサージすべき足ツボの箇所など教えてくれた。
そしてNさんは来たときのように、飄々と帰って行った。
不思議な時間であった。
陰陽師ファンの私は、穏やかな風貌の中に鋭いものが光るNさん、もしや安倍晴明の生まれ変わりではと、ひとり妄想して楽しんでいる。
さて、約束通りマンゴについて調べてみました。
マンゴはウルシ科で、原産地はインドからインドシナ半島周辺と書いてあるもの(ウィキペディア)と、意外にヒマラヤ山麓(宮崎の完熟マンゴー)と書いてあるものがある。
宮崎在住の方が自分でマンゴの種からマンゴを育てる実験をした記録がこちらに書かれている。
農業のプロのMちゃんのお父さんなら、育てられるんじゃないかな。
やってみてね、Mちゃん。
Mちゃんとジュンジュンガンのケチャを観に行く。
ジュンジュンガンというのは地区の名前で、家からほど近い。
ずっと気になっていたのだが、いつでも行けると思うとなかなか行かないものである。
Mちゃんが来たのを機にようやく足を運んだ。
もともとバリに興味を持ったきっかけは80年代にケチャの存在を知ったことだったから、住むようになってからもいろんなグループのケチャを見てきたが、ジュンジュンガンのケチャは踊りのレベルが抜群に高いのと、詠唱がいいのと、エンタテインメント性の高い演出で、私の中ではベスト3に入る。街の中心街から離れたロケーションもいい。
ジュンジュンガンは小さな地区だが、新進舞踏家のカデ・アルヤニさんなどを輩出しているだけあって、踊りのレベルが伝統的に高いのだろう。
帰り道、バイクの後から聞き慣れたフレーズ。どうやらMちゃん、頭から離れなくなってしまったらしい。
Mちゃんは日本では中型免許を持っていて、大きいバイクでツーリングしたりしていたのに、バリでオートマチックのスクーターに乗るのは怖いという。
Mちゃん曰く、バリではみんな交通ルールを守らないので、合流したりするときのさじ加減が分からないのだそうだ。日本だったらどちらが優先と決まっているので注意を払わなくてもいいようなところでも、バリでは関係ないので、こちら流のあ・うんの呼吸が必要になるということなのだろう。
逆にほとんどバリでしか走ったことのない私は、もう一度交通ルールを勉強し直さないと、とても日本では走れそうにない。
そんなMちゃん、1日スクーターを借りて、遠出しようということになった。
棚田で有名なテガララン、聖水の涌き出る沐浴場ティルタ・エンプルに寄って、キンタマーニ高原に行き、温泉でも入って帰ってこようというのが当初の計画であったが、そこはMちゃんと私、風の吹くまま、気の向くまま。
お昼前に出発し、まずは予定通りテガラランへ。
通りは物売りがすごいので、レストランに逃げ込み、棚田を眺めながらお茶をする。
話をしているうちに、Mちゃんがグヌン・カウィ石窟遺跡に行ってみたいというので、次の目的地はグヌン・カウィに決定。
テガラランから北上して、スバトゥからタンパクシリンへ抜ける道で、迷う。
でもこの迷い道がとっても良かった。
道を聞いてもやさしくて純朴なおじさんばかり。
どうにかグヌン・カウィに到着。
グヌン・カウィは11世紀頃の石窟遺跡で、ウダヤナ王とその家族のための墓碑群とされているらしい。クボ・イワという巨人が爪でひっかいて一晩で掘ったという伝説もあるという。日本で言えば“だいだらぼっち”かな。
この時点ですでに3時をまわっており、キンタマーニまで行くにはちょっと遅いということになり、キンタマーニ行きは取り止め。すぐ近くの沐浴場ティルタ・エンプルで人々が沐浴する姿を眺めたあと、ウブド方面へ戻ることに。
お腹も空いたので、ウブドのワルンで食事をする。
ツナ・バカール
どうしたことか、ご飯を食べたら猛烈に眠くなり、ツーリングはおしまい。
私のお勧めのイアー・キャンドリング(耳に鑞でできた筒を入れて、火をつけると、耳垢が鑞の筒に吸い取られる)に行った。
私は月1回位行っているのだが、初体験のMちゃん、さて結果やいかに。
(写真提供:Mちゃん)
10年前、初めてバリに来たとき、ここウブドの宿で知り合ったMちゃんがやって来た。
Mちゃん自身はリピーターで、何度もバリには来ていたのだけれど、今回は6年振り、7回目のバリになる。
Mちゃんと私は10年前にウブドで、その後8年くらい前に東京で会ったきりだったから、実に8年振りの再会になる。
10年前会社員だったMちゃんは、その後紆余曲折を経て、福島の小学校の先生になった。
3月11日の震災で、海沿いにある学校は、道1本手前まで津波が押し寄せたという。
しかも原発から32kmという距離。
地震、津波、原発と、大変な状況にありながら、小学校の先生という仕事を心から楽しんでいる明るいMちゃんだけれど、心身には相当疲れがたまっているに違いないと思い、中心街から離れた静かな宿を紹介した。
朝、宿に迎えに行ってみると、昨夜遅くの到着にもかかわらず、朝5時には目が覚めてしまったという。
10年前に泊まった懐かしの宿を一緒に訪れてみた。
随分規模を拡張したけれど、当時のスタッフもまだ働いていて、10年前の気持ちが甦った。
大好きだった田んぼが見渡せるプールもそのまま。
あとで聞いた話では、この田んぼは景観保存のために宿が10年間お金を払って維持しているのだそうだ。
ウブドは土地バブルで、この3年の間にもどんどん田んぼがつぶされて建物が建っているから、さもありなん。しかし10年経ったら、この田んぼもどうなってしまうか分からない。
Sさんが1週間の滞在を終えて日本へ帰っていった。
毎朝早起きして散歩しては、美しい写真を撮っているSさんなのだが、この朝は念願のアグン山が顔を見せてくれたという。
これで願いが全部かなった、とSさんはうれしそうだった。
サンパイ・ジュンパ・ラギ(また会う日まで)!
Sさんが見たこの日のウブド:
http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627455686986/
オーストラリアからSmとRsがやって来た。
二人はギアニャール近郊の静かな村に土地と家を持っていて、毎年数ヶ月をそこで過ごしにやって来る。
Mkちゃんとも面識があり、彼女の画才を高く評価していて、やはり家に飾る絵を注文していた。
せっかくなのでSさんもお誘いして、夜はみんなでご飯ということになった。
Mkちゃんが以前演奏に参加していたレストランで、バリ舞踊を鑑賞しながらご飯。
バリスの男の子のコマドリのような機敏な動きが素晴らしい。
短い里帰りを心から満喫した様子のMkちゃんであった。
Sさんが見たこの日のウブド:
http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627331385657/
たった2日(本当は4日なのだが、初日は夜到着、最終日は早朝出発なので、実質2日)という短い滞在期間で、つむじ風のようにMkちゃんがやって来た。
Mkちゃんは画家である。
日本の美大を卒業した後、デンパサールの芸術大学に留学してバリ絵画を学び、その後私費で滞在を続けて、バリ舞踊やガムランを学んだ。お金が尽きて日本に帰ったのが1年半前のことである。
絵だけで食べていくのは大変なので就職したのだが、そちらの仕事が忙しすぎて、「1日だけでいいからバリに帰らせろ」という心境だったらしい。
そのつむじ風Mkちゃんが、私の大家さんが注文していた絵を届けるため、夕方家に来てくれた。
私の大家さんはインド系イギリス人(たぶん)の女性で、ヨガの先生であり、アーユルヴェーダの専門家である。以前Mkちゃんが家に遊びに来たときに見せたサラスワティの絵を大変気に入り、インドの神様の絵を注文していたのだった。
今回Mkちゃんが仕上げた絵も大変気に入って、大喜びしていた。
短い滞在期間で友だちに会いまくるため忙しいMkちゃんを見送った後、AさんとSさんと定期公演を観に行った。
Sさんが見たこの日のウブド:
http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627331383903/
Sさんは8年ほど前、日本にガムランの先生(Aさん)と踊りの先生を招いて、教え子である中学生にガムランとバリ舞踊を仕込むという偉業を成し遂げてしまったのだが、そのとき招いた踊りの先生Gさんはプリアタン村の王族の方で、数ヶ月前から新しい定期公演を主催している。
ご挨拶かたがた、AさんとSさんと一緒に、その定期公演を観に行った。
よくよく聞いてみると、Gさんは、伝説の踊り子イ・グスティ・アユ・ラカ・ラスミさんの娘さんで、昨年8月に行われ、私も観に行った特別公演(往年の踊り子で今は後進の指導に当たっているマエストロたちとその後継者2世代が踊り次ぐという企画。ラスミさんもそのマエストロの一人としてチョンドンを踊った)を監督されたのだった。
ラスミさんは少女の頃、プリアタン村の名門グヌン・サリ楽団の欧米公演に参加して、一躍プリマドンナとなった。私の持っている本には、11歳の彼女がレゴン・ラッサムでガルーダを演じている印象的な写真が載っている。またアメリカ人興行家ジョン・コーストの著作”Dancing Out of Bali”では、チョンドン役のラスミさんが表紙を飾っている。
AさんとSさんの知己により、そのラスミさんご本人の案内で、公演の前後に、会場から道一本隔てたご自宅兼出演者控え室にお招きいただいた。
ラスミさんはすでに70歳を過ぎているけれど、背筋がピンと伸び、装いも立ち居振る舞いも、品があってとても美しい。
「イブ、本当におきれいですね」
と言うと、
「女性はみんな美しいのよ」
とおっしゃる。
Sさんのおかげで、ちょっとうれしいマエストロとの邂逅であった。
Sさんが見たこの日のウブド:
http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627346258639/
「ちょっとやってみてごらんなさい」
と言うAさんのことばにのせられ、はじめて木琴のようなバチを握った。
ティンクリックは木琴のような竹製の楽器で、5音階(チューニングは平均律ではない)、2オクターブからなる。
片手で木槌を握り、叩いた側からもう片方の手でミュートしていく青銅製のガンサとは違って、両手にバチを握って両手で叩く。
音色も、金粉をまき散らすような甲高いガンサとは違って、やわらかい。
田んぼを吹き抜けていく風がカラコロと鳴らすウィンドチャイムのような音。
Aさんの後について、スケール練習のような単純なメロディーをオクターブで奏でる。
ミとファの間に黒鍵がないことによって1オクターブが視覚的に認識しやすいピアノと違って、何の目印もないティンクリックは、どの鍵盤とどの鍵盤が1オクターブの対応関係になっているのかが視覚的に分かりづらく、時々道を踏み外して不協和音を奏でてしまう。
だんだん慣れて道を踏み外さなくなると、Aさんが複雑な合いの手を入れてきて、美しく絡み合う。
竹の振動が体に響いてきて、叩いている本人がいちばん心地よい。
日が沈む前に、Aさんのお宅をお暇し、Sさんとサヤンへ向かう。
1930年代にこの地に家を建て、通算で5年ほど滞在したカナダ人音楽家コリン・マックフィーの住居跡に案内するためだ。
ガムランの響きに惹かれてバリを訪れ、島中を音楽探訪して回ったコリン・マックフィーは、”A House In Bali”(日本語版タイトル「熱帯の旅人」)という著作に、その追憶をユーモアと情緒あふれる筆致で生き生きと描いている。
この本を愛して止まない私は、とうとう彼の住居跡を探し当ててしまった。
サヤンテラスと呼ばれるその土地は高台の崖っぷちにあって、椰子の木の茂る谷を眼下に見下ろせる。
コリン・マックフィーの住居跡は今はホテルになっていて、母屋だった部分は客室の一部となっている。
いつか泊まって、”A House In Bali”を読み直してみたいなあ。
Sさんが見たこの日のウブド:
http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627346258639/
プリアタン村でチャロナランが行われた。
チャロナランというのは悪魔祓いの劇だが、プリアタン村ではその昔これを行わなかったところ、疫病が流行したくさんの人が亡くなったので、必ずやるようになったのだと、以前プリアタン村の人に聞いた。
夜が更けてから行われ、終わるのは真夜中。空が白むまで続くこともある。
いつもは途中で眠くなって帰ってしまう私なのだが、せっかくSさんも来ていることだし、今回はがんばってフル鑑賞することにした。
夕方6時くらいにAさんのお宅からお祈りに行き、そのあといったんAさんの家に戻ってご飯をいただいて、夜9時くらいから会場へ。
チャロナラン劇の基本ラインは、バロン(獅子舞の獅子のようなルックスの聖なる存在)とランダ(魔女)との闘いだが、ストーリーや構成、娯楽性や宗教性の度合いは村によって全く異なり、非常に多くのバリエーションがあるようだ。
手元の資料に載っていたチャロナランの物語をご紹介すると—
舞台は11世紀、ジャワのエルランガ王の治世。
エルランガ王の母はジャワの王女マヘンドラダッタ、父はバリの統治者ダルモダヤナであった。
マヘンドラダッタが魔術を使ったため、ダルモダヤナはマヘンドラダッタを森に追放し、別の女性と再婚した。
ダルモダヤナが亡くなったとき、マヘンドラダッタは未亡人=ランダとなった。
マヘンドラダッタは父の再婚を止めなかった息子のエルランガを恨んでいたため、弟子を集めて、エルランガが治めていた東ジャワ王国を破壊して回った。
マヘンドラダッタにはラトナ・ムンガリという美しい娘がいたが、魔女の娘であるが故に結婚相手が見つからなかった。
ラトナはカーストが高いため、カーストの高い男性と結婚しなければならない。
娘の結婚相手が見つからないこともマヘンドラダッタを苛立たせ、ランダとなったマヘンドラダッタは、弟子とともに東ジャワ王国を暴れ回り、疫病を流行らせ、王国に破壊と死をもたらした。
ランダは魔力を維持するために、赤ん坊の死体を必要としたため、娘のラトナや弟子たちを墓地に遣わし、赤ん坊の死体を漁って来させた。
エルランガはランダを破滅させようとしたが、ランダの魔力が強すぎてかなわなかったため、司祭のエンプ・プラダに助けを求めた。
エンプ・プラダはその息子または助手(どちらかは不明)のバフラを送り、ラトナと結婚させた。
二人は幸せに暮らした。
しかしバフラの本当の使命は、義理の母ランダの秘密を探り出すことだった。
バフラはついにランダの魔術書を盗みだし、それをエンプ・プラダに届けた。
エンプ・プラダはランダの魔術を使って犠牲者たちを生き返らせ、自らランダと対決した。
エンプ・プラダはまず黒魔術返しによってランダを殺し、一度生き返らせて、ランダが人間の姿をしているときに再び殺した。
以上がフルストーリーだが、よくチャロナラン劇で行われるバリエーションは—
ランダは娘のラルンに、墓地で赤ん坊の死体を漁って来るよう命令する。
ランダは祈祷のための供物が必要で、供物には赤ん坊の死体が必要だった。
ラルンは墓地に行って赤ん坊の死体(赤い布でくるまれている)を見つけ、それを生きた赤ん坊のようにあやしている。
木の陰からこれを見ていたバロンが進み出て、赤ん坊を渡すように言う。
もみあった末、バロンが赤ん坊を奪う。
ラルンは泣きながら母親ランダの元に帰るが、ランダは「赤ん坊を取ってこいと言ったのに、敵を連れてきた」と激怒する。
ランダはラルンに、バロンとの闘いに勝つことができるよう、家に帰って全ての社で祈るよう命令する。
ランダは大声を上げ、持てる魔力を結集する。
その声を聞きつけたバロンは、子分たちにランダを殺すよう命令する。
しかしランダは魔法の布によって、バロンの子分たちを打ち負かす。
ランダはバロンの子分たちを打ち負かすが、バロンそのものに勝利したわけではない。
バロン(善を象徴する)とランダ(悪を象徴する)の闘いに勝敗はない。
詰まるところチャロナラン劇の真髄は、ヒンドゥーバリ的な善と悪のバランスにあるのである。
(Bali: Sekala & Niskala Volume I: Essays on Religions, Ritual, and Art
by Fred B. Eiseman, JR.より抜粋・翻訳)
さて、プリアタン村のチャロナランは、以上のようなチャロナランの物語の間に、喜劇がサンドイッチになっている。バロンの手下の男たちがランダをクリス(剣)で刺し殺そうとする場面では、ランダの魔力によって自らにクリスを突き立てる男たちが次々にトランス状態に入ってしまい、司祭が聖水を振りかけて正気に戻す。そうかと思えば、吉本新喜劇ばりのドタバタコメディが繰り広げられ、観客はドッカンドッカン受けている。一転して、ランダのもたらす厄災によって死んだ男が墓地に運ばれる(Aさんによれば、死体役をする人は強くないと本当に死んでしまうことがあるそうだ)という不気味な場面が繰り広げられ、その後にまたドタバタコメディ、とこんな具合なのである。
途中何度も雨に見舞われながら、無事にチャロナラン劇が終了すると、真夜中の2時を回っていた。
Sさんと別れて帰る頃、雨がザーッと降ってきた。
Sさんが見たこの日のウブド:
http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627455681074/Sさんが身を寄せているガムランの先生Aさんのお宅を訪ねた。
5年ぶりに会うSさんはちょっとふっくらしている。
ご本人曰く“震災太り”だとか。
初めてお会いするAさんはティルタ・サリのリーダーで、画家でもあり、物腰の柔らかい上品な方である。
心地よい風の吹き抜けるバレでしばらくお喋りしたあと、“震災太り”解消のため、夕方からのヨガのクラスにお誘いした。
後日談:
到着翌日だというのにSさんは早速早起きして、絵葉書か写真集にしたいような美しい写真を撮っていた。
Sさんが見たこの日のウブド:
http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627455679948/
シンガポールから帰ってきたこの日、日本からSさんがやってきた。
2006年にSさんの住む盛岡を、私が旅の途中で訪れて以来だから、5年ぶりの再会になる。
Sさんとは10年前、ここウブドで知り合った。
80年代に摩訶不思議なケチャの存在を知って以来、ずっと気になっていたここバリ島を、ようやく初めて訪れたときのことだ。
ある夜、ウブド近郊の小さな村にジョゲッ・ピンギタンという神聖な踊りを観に行くツアーに参加した。
神がかったような踊り子と、竹のガムランのやわらかな響きが素晴らしく、何か記録になるものがほしかったが、そのときカメラを持っていなかった。周りを見回してみると、大きな望遠レンズをつけた立派なカメラで写真を撮っている人がいる。公演が終わった後、おずおずと写真を売ってもらえないか聞いてみた。その人は東北のやわらかなアクセントで「売るだなんてとんでもない」と恐縮し、数日後、私の泊まっていた宿にわざわざ写真を届けてくださった。お金は受け取ってくれなかった。
それがSさんだった。
お話ししてみると、岩手県の中学校で美術を教えていて、バリの芸能に惹かれ、休みの度にバリを訪れているという。
Sさんはその後バリ好きが昂じて、教職についていた中学校でバリをテーマに特別授業を持ち、私財を投じてガムラン1セットを購入し、ウブドからガムランの先生と踊りの先生を招いて、中学生にガムランと踊りを仕込み、発表会をするという偉業まで成し遂げてしまった。
そして3年ほど前には、当時の生徒さんたちを連れてウブドを再訪されたが、当時、私はまだタイのチェンマイに住んでいたので、お会いすることができなかった。
現在は宮古市に赴任しておられる。
3月11日の震災では、Sさんご自身は無事だったものの、宮古市は津波で大きな被害を受けた。
お世話になったガムランの先生や踊りの先生に心配をかけたので、元気な顔を見せたいと、3年ぶりにやって来られたのである。
私のシンガポールからの到着が夜だったので、この日はお会いすることができなかったが、S さんはティルタ・サリ楽団の公演を観に行って、またたくさん美しい写真を撮っている。
Sさんが見たこの日のウブド:
http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627456126318/
私が住んでいる地域は美しい田園風景が広がっているのがとても気に入っているのだけれど、住み始めてからしばらくして「売り地」の看板が目立つようになった。この2年半の間にも、どんどん新しい建物が建っている。このところの土地バブルで、大変な労働をしても実入りの少ない農家の人々が土地を売りたくなる気持ちは分かるし、自分だってきっと田んぼをつぶして建てられたのであろう家に住んでいるのだから、大きなことは言えないが、やっぱり美しい田園風景が壊されていくのを見るのは心が痛む。ところが、今日久しぶりに遠回りして田園風景を走ってみたら、こんなものを見つけてしまった。
「売りません」
気概のあるバリの農家の人が立てたものか、はたまた在住ガイジンアーティストのインスタレーションか。真偽のほどは分からないが、心から応援します。