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2010年6月1日火曜日

阿部浩二さんソロギターライブ


阿部浩二さんはブラジル音楽を中心に様々なバンドで活躍する素晴らしいギタリストだ。私がブラジルから帰ってきたばかりの頃、四ッ谷のサシペレレで演奏していた阿部さんと知り合って以来、もう18年来のお付き合いになる。

今回一時帰国が決まって、その間に阿部さんのギターをじっくり聴けるライブがあるか阿部さんに聞いたら、今ひとつなかった。けれども近々ソロライブをやる話があって、もしかするとその前哨戦をブッキングするかも知れないという話だったので、だめもとで待っていたら、それが実現したのだった。

もう20年以上プロ活動をしている阿部さんだけれど、ソロライブは今回が初めて。記念すべき夜だ。

ブラジル音楽の中でもメジャーでない作品を積極的に取り上げ、その他ピアソラやオリジナルなど、阿部さんらしい渋い選曲で、心地よい2ステージを終えた。

阿部さんに別れを告げ、Mkさんと帰路につく。

2009年9月23日水曜日

雨のロングバケーション

猫もかたまってまるくなる雨の寒空

80年代の大瀧詠一の名盤”A Long Vacation”の女性ヴォーカルによるカバー版が出るということをとあるメーリングリストで知り、懐かしくなってiTunesからアルバムを引っ張り出してきて、大好きだった「雨のウェンズデイ」など聴いていたら、今日は水曜日でしかも朝から雨だということに気付いて、「これぞ雨のウェンズデイ」と一人で悦に入っていたうちはまだ良かった。

この雨、それからまる1週間降り続いたのである。

しかも、イスラム教の断食明け大祭と日本の所謂シルバーウィークがばっちり重なった1週間に、である。

日本から観光で来た人々も、ジャワ島から観光で来た人々も、お気の毒だったが、こう毎日降り続くと住んでる私も鬱になる。洗濯物は乾かないし、外出すればまた濡れるし、太陽がまったく顔を出さないどんよりした空の下に閉じこめられていると、考えることが全部悲観的になってくる。

今また「これぞ雨のロングバケーション」と一人で悦に入っていられるのも、太陽が戻ってきてくれたお陰である。

2009年3月29日日曜日

A House In Bali

コリン・マックフィー住居跡からの眺め

1930年代のバリに心惹かれる、という話は事ある毎に触れてきた。二つの大戦にはさまれたこの時代は、ドイツ/ロシア人画家/音楽家ウォルター・シュピース初め、メキシコ人画家コバルビアス、オランダ人画家ルドルフ・ボネ、人類学者ベイトソン・ミード夫妻など、この島に魅了された西洋人芸術家、人類学者たちが島を訪れ、長期滞在し、この島の芸能に影響を受けるとともに、影響を与えた時代であり、それぞれがそれぞれの分野で様々な著作を残している。

そんな中で、ガムランの音に魅せられてバリ島にやってきたカナダ人音楽家コリン・マックフィーの著書「A House In Bali(邦題:熱帯の旅人〜バリ島音楽紀行)」(大竹昭子訳 河出書房新社刊)は、私の興味の直球ど真ん中の内容であり、大変興奮した。いつまでも読み終わりたくなくて、結局2度読み返しただけでは飽きたらず、コピーをとって、今も何度も読み返している。

コリン・マックフィーは駆け出しの作曲家だったが、あるとき偶然レコードで耳にしたガムランの音に魅了され、はるばるバリ島までやって来る。そしてついには当時はド田舎だったウブド近郊のサヤン村に家を建て(A House In Bali)、通算で5年間滞在する。あちらの村に古い楽器が眠っているらしいと聞けばキャンプをしてでも探しに行き、こちらに古い曲を知っている人がいると聞けば教えを請いに行き、様々な音楽家や舞踏家や芸能のパトロンである王たちと親交を結び、解散した楽団を復活させたり、自分の村に新しい楽団を創設したり、舞踏家を育てたりしてしまう。この本にはそんなエキサイティングな日々が、音楽家の鋭い耳と感性で、実に生き生きと、詩情とユーモア溢れる筆致で綴られている。

この人の素晴らしいところは、この地域の通商用語であり比較的習得が容易なマレー語だけでなく、マレー語が通じないサヤン村に住んだために、複雑な敬語体系があって習得が難しいと言われるバリ語まで学んでしまったところで、その彼の口から、地元の人々の会話が生き生きと描かれ、様々な曲の題名や劇の筋を解き明かしてくれるのだから、バリ文化の恰好の案内書でもある。

そのとき採集したバリ島中の音楽を、彼はその後20年余をかけて「Music in Bali」という「電話帳ほどの厚みがある」という大著にまとめ、後年はUCLAの音楽学科および民族音楽科の教授に迎えられたというが、こちらが学術書であるのに対して、本書の方は、まるで映画を観るように、彼の目を通して1930年代のバリが見えるような気がする。

数多い印象的なフレーズの中で、バリの音楽の本質を言い表していると思われる一節がある。少し長いが引用したい。

「 こうして毎晩様々な曲を聴き続けるうちに、バリの音楽の法則や形式や構造が、ようやくつかめてきた。私は村人とおしゃべりしたり、採譜したり、遠出していろんな音楽に出会ったりしながら、謎を解いてきたこれまでの道のりを思い返した。今やするべきことはすべてし尽くしたようだった。パズルのコマは収まるところに収まった。ミステリーは解決された。
 しかし本当にそうだろうか、という思いも一方にはあった。確かに私はバリの音楽について新たな原理と法則を手にしたようだった。そのみずみずしさや精巧さに私は興奮し、これまで集めた資料を元に、私なりにバリの音楽を分析して本に著したいと考えた。それを思うと思わず胸が高鳴った。だがルバの奏でる繊細な太鼓の響きや、新たな創作意欲を感じさせるロットリングのまばゆい旋律を聴いていると、バリ音楽の究極的な本質や特徴は、とらえようにもとらえきれないもののような気がしてくるのだった。」

だからこそ、今もバリの音楽は私を含め、多くの人々を魅了せずにはおかないのだと思う。

大竹昭子さんの翻訳がまた素晴らしい。バリ島の文化に精通し、その方面の著書もあり、ご自身が素晴らしい書き手でもある訳者ならではの、深い理解と愛に基づく名訳である。

さて、彼が暮らし、当時はド田舎だったサヤンは、今や高級リゾートが立ち並ぶ一帯となっている。本書を頼りに彼の住居跡を探してみた。当たりをつけて、あるリゾートに聞いてみると、何と「ここですよ」と言う。今は改築されてリゾートの一部となっているが、お願いしてその家を見せてもらった。本書にある通り、「墓地の横のそそりたった崖の上」にあり、「建物は崖のきわに建っており、急勾配の屋根の切り窓から、険しい渓谷をうねっていく川の様子が、まるで飛行機から眺めるように見渡せた」。この景色は80年近く経った今も余り変わっていないのではないかと思われた。この場所で、この本に書かれている魅力的な光景の数々が繰り広げられたのだと思うと感動が込み上げ、私は心の中で、そこにいるような気がするコリン・マックフィーさんの魂に話しかけた。

2008年12月1日月曜日

火葬

昨日のお葬式に続いて、今日は火葬が行われた。お葬式の会場である王宮から、火葬が行われる神社までの1 kmほどの距離を、遺体を乗せた壮麗な櫓と、遺体を荼毘に付すのに使われる黒い牛の張り子とが、御神輿のように人々の手で担がれて運ばれて行く。相当な重さだろう。進んでは休み、休んでは進む。行進の列に参加してただ歩いているだけでも暑くて汗が噴き出すくらいだから、担いでいる人たちは相当暑いだろう。 消防車が出動し、担ぎ手の人々に放水車で水を浴びせる。楽隊が随行し、行進の様子に合わせて、賑やかな音楽を奏でる。

こんな大きな櫓を…

人が担ぐ。おじさんたち、ご苦労様です!

神社に到着すると、遺体が櫓から黒い牛の張り子に移され、神官によって儀式が行われた後、荼毘に付される。この後も様々な儀式が執り行われるのだが、火葬 が始まると大抵の人は帰ってしまい、後には遺族や観光客がひっそり残るのみとなる。私も一度くらいは最後まで見届けてみたいと思いながら、空腹と暑さに負けて、いつもこの辺で引き上げてしまう。

火葬祭礼のクライマックス。遺体を入れた黒牛の張り子が燃やされる

さて、火葬の様子については以前にも何度か書いているので、今日は楽隊に注目。私は葬送行進に随行する楽隊がとても好きで、今日は行進の最初から最後まで楽隊にくっついて歩いていた。打楽器から構成されるこの楽隊は、まるでサンバのように血湧き肉躍るリズムを奏でる。サンバと違うのは、リズムと旋律がバリ的にエキゾチックなところで、これがまたたまらない。葬送行進に随行する楽隊はどうやら若い衆の務めらしく、10代後半から20代前半くらいの男の子たちで構成されている。リーダーが行進の様子を見ながら指示を出すのだが、これがものすごくかっこいい。櫓と黒牛が休んでいるときはゆっくりしたリズム、前進するときには早いリズム、と絶妙なタイミングで盛り上げる。私の知る限りでは、サンバ、ニューオーリンズのセカンドライン、そして阿波踊りに並ぶかっこよさだ。

行進の始まり

中央の彼がリーダー

行進終了。お疲れ様!

2008年11月29日土曜日

頭を空っぽにする時間


週に1度、ガンサという楽器(ガムランを構成する鉄琴のような楽器)のお稽古を受けている。私はもともと一人で完結できる楽器(つまりピアノとギター)以外には余り触手が動かない質なのだが、ガムランのあの妖しく美しい音色がいったいどうやって創り出されているのか知りたくて受けたワークショップが余りに楽しくて、そんな時間を持ち続けたい余りに、そのときの先生にお稽古を申し込んだのだ。

一台のガンサに先生と向き合って座り、先生の叩いた通りにとにかく真似をして覚える。楽譜のような記録手段もないし、家に楽器もないから、とにかくその2時間に集中して覚えるしかない。歩くのと一緒で、頭で考えるとかえってうまくいかない。とにかく頭を空っぽにして体で覚える。2時間これをやると、ぐったり疲れるけれども、爽快な疲れだ。

これが楽しい時間になるのは、やはり先生のお人柄によるところが大きい。向き合ってひたすら先生の真似をするという学び方に加えて、ガンサという楽器は、二人で交互にひとつのメロディーを奏でるようになっているので、二人羽織とか二人三脚のようなかなり濃密なコミュニケーションになる*。相性の悪い人とだったら、疲れ果ててしまうだろう。先生の温くてチャーミングなお人柄のお陰で、週に一度のこの時間が、今はとても楽しみなものになっている。

* これはどういうことかと言うと、例えばアヴェ・マリアの冒頭のアルペジオ、ドミソドミソドミを演奏するとしましょう(実際にはスケールが違うから演奏できないけど)。奏者1はド・ソ・ミ・ド・を叩き、奏者2は・ミ・ド・ソ・ミを叩く。これがモザイクのように合わさってひとつのメロディーになるのです。分かりますか?

2008年11月16日日曜日

グル(導師)を探して

ワークショップ修了証

先日、美術館主催のガムランワークショップを受けた。この美術館ではバリ文化を深く理解するための様々なワークショップが開講されていて、ガムランや舞踏、料理の他にも、「バリのヒンドゥー教」、「バリの歴史」、「バリの伝統建築」、「ヒンドゥー教占星術と数秘学」なんていうのもあって、どれもとてもおもしろそうだ。値段は少し高いのだが、前日に申し込めば受講生が一人でも開講してくれるというので、まずはガムランを受けてみることにした。

というのも、私はガムランの奏法を習いたいというよりも、一体ガムランとはどういう楽器から構成されていて、音階はどうなっていて、拍子はどうなっていて、楽曲はどう構成されていて…、要は、ガムランて一体どうなってるの?一体どういう仕組であんなに美しい音楽になるの?とまあ、そういういうことがまず知りたかったのである。ワークショップのリーフレットには「このワークショップでは、ガムランの歴史、村落的文脈におけるガムランの役割について学び、熟練奏者によるデモンストレーション演奏を見学します。各参加者は実際に楽器を演奏し、短い楽曲を学ぶ機会があります。」とあったので、私のニーズにぴったりだと思ったのである。

ところが蓋を開けてみたら、2時間のワークショップは講義の類はまったくなく、奏法のお稽古に終始したのであった。

しかし、これが結果的にとても良かったのである。ピアノでもギターでも、楽譜を見ながら弾くことに慣れている私にとって、先生と一対一で向き合って、先生の叩いたフレーズをひたすら真似して覚えるしかない、というこのお稽古は、とても新鮮だった。そして何より、私の下手な演奏に、先生がモザイクのようにからんでくると、美しい旋律が流れだし、うっとりしてしまうのである。

結局、音階だの楽器の構成だのについては分からずじまいだったが、習うより慣れろということなのかも知れない。何よりあの気持ちよさは、講義などでは味わえないものだったろう。

そのときの先生の元へ、週に一度お稽古に通わせてもらえることになった。グル(導師)と出会うことができて、とてもうれしい。

2008年10月26日日曜日

練習風景

魂を揺さぶられる情景というのがある。私の場合それは多分に音楽や、ものが創り出されるときと結びついている。先日ぶらぶらしていたら、王宮で女性たちに よるガムランと子どもたちによる踊りのグループのリハーサル風景に出くわした。5人ほどの男性が指導にあたっている。それは感動的な光景だった。ガムラン には楽譜がなく、師匠と対面でひたすら真似ることによって耳と体で覚えていくしかないのだという。見えない音を全員で耳を澄まして追いかけ、指導し、指導 され、創り上げていく姿がそこにあった。私は魂をつかまれ、しばらくそこを動くことができなかった。

周囲には子どもたちが遊び回っており、こうしてこの子たちは、自然にこの音や動きを体に染みこませていくのだろう。2000年生まれ以降の子どもたちに、こうして伝統は日々、受け継がれているのだ。






2008年10月25日土曜日

コンクール

渓谷をはさんだ向こう側から聞こえてくる

ここのところ毎日近くの高校からガムランの練習の音が聞こえてきていて、私はかなり幸せな時間を過ごさせてもらっていたのだが、今日はいつにも増して演奏の間に大きな歓声が聞こえたり、どよめきが聞こえたり、アナウンスが聞こえたりするので、これはきっとバリ中の高校生が集まってコンクールが行われているのに違いないと思って、子守のKさんに聞いたところ、何と校内のクラス対抗ガムランコンクールのようだ、と言うではないか。え!?クラス対抗!!???バリの芸能の層の厚さを、改めて思い知らされた。コンクールは朝から夕方まで一日続いたのだ。

2008年10月12日日曜日

黄金の音色


私の部屋は夜になるとガムランが聞こえてくることがある。家にいながらガムランが聴けるなんてなんてぜいたくなんだろう、それにしてもあの音はいったいどこから聞こえてくるのかしら、と常々思っていた。昨日はいつになく朝から、かなり大きな音量で聞こえてきて、空気が金粉で満たされるようでうっとりした。子守のKさんに聞いてみたところ、その音の出所は近くの高校で、高校生たちの練習だということが判明した。さすがはウブドである。

さて、「空気が金粉で満たされる」と書いたが、これには元ネタがあって、私の持っているガイドブックがガムランを「黄金のような音色をまき散らす」と表現しているのである。適確な表現だなあと感心していたら、思い当たったことがある。

ニューサイエンスの旗手、ライアル・ワトソンの「未知の贈りもの」という名著の中に、著者がインドネシアの小島(名は明かされていない)で出会ったティア(仮名)という少女の話が出てくる。彼女には超常的な力があって、未来を予知したりするのだが、音を色で表現するのである。本が手元にないので具体的に引用できなくて残念だが、サギの鳴き声や、波の音、人の声が、色として見えるのである。著者は最初、詩的な表現だと思って聞いているが、どうも違うらしいということに気付く。少女にたずねると、かえって「あなたには見えないの?」と驚かれるのである。

後で別の本を読んで知ったのだが、この現象を「共感覚」というらしい。大半の人間には五感があって、普通はそれぞれが分離されているが、これが未分化で、ある感覚と別の感覚が融合している人が、ティアのように超常的な能力がなくても、稀にいるそうだ。融合のパターンにはいろいろあって、ティアのように音を色として知覚する人もいれば、味を形として知覚する人もいる。

私のように五感が分離されている大半の人も、根っこの方ではまだつながっていて、太古の記憶のように、融合した感覚を感じることができるのではないか。ガムランの黄金色を私たちはかすかに「見て」いるのだと思う。

(この原稿を書いているときに、ライアル・ワトソン博士が今年の6月25日に69歳で亡くなっていたことを知った。心からご冥福をお祈りします)

2008年10月9日木曜日

ケチャ




初めて私の人生にバリという島の名前が登場したのはケチャがきっかけだった。

私が大きな影響を受けたバンド、YMOの中期のアルバム“Technodelic”の中に、”Neue Tanz”という、ケチャがフィーチャーされた曲があったのだ。このアルバムは1981年リリースだから、私が聴いたのは1982~3年頃だったろうと思う。

その、人をトランス状態に誘い込むような摩訶不思議な合唱が「ケチャ」というもので、「バリ」という南洋の島のものだということは、エキゾチックな秘境のイメージとなって私の頭に刻み込まれた。

それから、キングレコードのワールドミュージックシリーズの「ケチャ」を買って聴いていたりしたのだが、ようやくその「南洋の秘境」で実際にケチャを目にできたのは2000年になってからである。

さて、手元の資料によると、ケチャというのはもともとサンヒャンという集団催眠によると宗教儀礼で、少女がトランス状態で踊るときに伴奏として行われていた男声合唱が原形だという。1930年代にバリに住んだ画家ウォルター・シュピースの提案で、「ラーマーヤナ物語」を採り入れ、舞踏劇に創作されたものが今のケチャであるということだ。

芸能の中心地であるウブドでは、毎晩5つ以上の芸能プログラムが行われており、ケチャも毎晩どこかで行われている。観光向けと侮るなかれ。神々に奉納するものとしての芸能が、神々と生きる人々の暮らしの中に分かちがたくあることを、感じることができるから。

ケチャは村毎にグループがあって、村落共同体のひとつの参加項目であるようだ。私の住む村のケチャの公演を観に行ったところ、その村のほとんどの成人男性が協力、参加しており、収益金は村の寺院の修理や再建、儀式などへの奉納金として使用される、との説明があった。

確かに、私が会場のお寺に向かう道々、衣装を着けて家から会場に向かう村の男性たちを見かけた。公演が始まり車座になって座る男性たちを見ると、白髪のおじいさんから青年まで、老若入り乱れている。そしてその姿は一様にりりしい。

昼間はトランスポート、トランスポートとうるさいおじさんたちもその中にいるのだろう。これからはちょっと見直しそうだ。

それにしても、1982〜3年には「南洋の秘境の摩訶不思議な芸能」だったものに、2008年の今、目と鼻の先で触れることができる。つくづく感無量である。