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2009年8月29日土曜日

「国家の品格」再読


1ヶ月にわたって関わっていた仕事が終わり、人と関わる仕事が終わるときにつきものの、安堵感と寂しさがないまぜになった気持ちを味わっている。こういう感傷は時と共に薄れていくものだけれど、ないよりはあった方がいい。

そんなわけで読みかけの「国家の品格」を読了した。ところが実はこれ、再読だったということに、読み始めて随分経ってから気付いた。これには我ながら愕然とした。

先日よく行く貸本屋の本棚にこの本を見つけ、「いつかベストセラーになってたやつだな」と思い借りたのだが、読んでいたら「あれ、何か聞いたことあるな、この話」という箇所がちらほら出てくる。随分後半になってから、数年前会社の先輩にお借りして読んだことがあったのをやっと思い出した。

読みやすくてすいすい読んでしまう本は忘れるのも早いのか、はたまた年のせいかは敢えて結論を出さないことにして、興味深かったのは自分にとって印象深かった箇所はやっぱり覚えていることで、さらに今回の再読で今の自分にとって印象深い箇所が新たに付け加わった。

例えば、「ならぬことはならぬものです」という武士道精神的問答無用の決めつけは今の私にはとても爽快に響くし、日本人の自然に対する繊細な感受性は、日本を離れて暮らすようになってより一層強く、誇らしさと郷愁を伴って実感するようになった。

また天才の出る地域には偏りがあって、その条件は「美の存在」、「跪く心」、「精神性を尊ぶ風土」を備えていることだという説は前回読んだときにも印象深かったのだが、今回は「夢の中で女神ナーマギリが教えてくれる」と言って次々に異様に美しい定理や公式を発見したというインドの高卒の大天才数学者ラマヌジャンという人がとても気になった。最近仕事の関係でインド的ものの考え方に触れる機会が多いせいだろう。

この「美しさ」というのがミソで、著者で数学者の藤原正彦先生は「あらゆる理系の学問において、美的情緒こそ最も重要」と断言しておられる。

岡潔という変わり者の日本の大数学者が、数学の独創には情緒が必要と考え、芭蕉一派の俳諧の研究に励み、毎日お経を唱え、天皇陛下に「数学とはどんな学問か」と聞かれて「生命の燃焼です」と答えたというエピソードも紹介されていて、印象深い。

ド文系の私に「理系の学問に美的情緒が最重要」ということが実感として分かるわけではない。が、直感的には分かる気がするのだ。それは究極この世の本質は美なので、真実を探求するには美を感じられる感性がなければいけないということなのではないか。そうだとしたらうれしいことである。

2009年7月12日日曜日

インドネシア文学


インドネシア人作家によりインドネシア語で書かれた本を2冊立て続けに(邦訳で)読んだ。

1冊目は「バリ島の人買い ニ・ラウィット」アナック・アグン・パンヂ・ディスナ著。バリの王族出身の作者によるインドネシア語での作品で、植民地時代に実際に行われていたという人買いの手先となり、果ては自分も売られてしまう女を縦糸に、当時の風俗が情緒豊かに描き出される。日本で言えば女工哀史のような趣があって、しみじみとする。それほど遠い昔ではない昔のバリ。呪術が支配する世界、日の暮れる頃から集い、カウィ語(古代ジャワ語。教養がある人しか読めない)で書かれたロンタルを吟唱し、まるで漢詩を読むように訳をつけていくという典雅な催し。是非映画で見てみたい気がする。

2冊目は「ジャカルタの黄昏」モフタル・ルビス著。こちらは独立直後のジャカルタを描いたガッツリ社会派の作品だ。官僚の腐敗、インテリたちの空疎な議論、村落から流れてきた社会の底辺を生きる貧困層… 硬派なジャーナリストであった著者によるこの小説作品は、インドネシア国内では長い間出版できずインドネシア語による原作よりも英訳が先に出たという。

インドネシア語というピジンによる文学の可能性やいかに、などという興味もあって読んでみたのだが、両方ともとても良かった。というか、そんな偉そうなことを言う前に、未だに日常会話も覚束ない自分のインドネシア語力をどうにかしろという感じですね!

2009年7月8日水曜日

ラーマーヤナとマハーバーラタ


「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」と言えば、世界史の教科書で習ってタイトルだけは知っているものの、読んだことのない古典のうちのひとつだったが、バリに住んでいると、これが頻繁に顔を出す。ケチャやワヤンクリッ(影絵芝居)もこうした物語に題材を取っているし、ラーマやシータ、ハノマンといった英雄の名前は常識中の常識。キリスト教国にとっての聖書のように、モラルのお手本であり、教訓であり、ヒンドゥー文化の基層を成していることが分かるので、どうしても一度は読む必要に駆られる。古典は退屈なものという先入観があって、なかなか手が出なかったが、えいと思い切って(ダイジェスト版を)読んでみたら、これが意外や意外、面白いのである!

時の試練に耐えて読み継がれる物語というのは、やはり人間の心に響く普遍性があるのだろう。ご興味ある方は是非ご一読ください!

2009年4月6日月曜日

陰陽師からバリへ

バリの神社は日本の神社と雰囲気がよく似ている

バリ島は古くから多くの文化人類学者や芸術家たちを惹き付けてきたし、最近では多くの観光客を惹き付けている。文化人類学者にとっては、そのヒンドゥー教と土着宗教の混合した独特な宗教と稲作に根差すめくるめく祭礼の数々や生活様式が、芸術家にとっては、そのエキゾチックで洗練された、神々(そして人々)を楽しませるためにあるガムランの音や舞踏、演劇、絵画、彫刻が、そしてすべての人が‘芸術家’とも思えるようなその‘芸術的’な生活のあり方が、そして観光客にとっては(特に日本人には昔の日本を見るような懐かしさを感じさせる)美しい棚田や咲き乱れる花々、空気の中に漂う甘い花と線香の香り、微笑みを絶やさない褐色の肌をした美しい人々、リーズナブルな‘癒し’のスパが、その魅力であるかも知れない。惹き付けられる人の分だけ、その理由はある。

では私がこの島に惹かれる理由は何かと考えてみたときに、それは上記のすべてであるけれども、やはり魅力的な音楽と舞踏がある、ということが大きい。いつも音楽に惹かれて旅をしてきた。沖縄の音階(バリのと似ている)に惹かれて沖縄へ、ブラジル音楽に恋をしてブラジルへ(そして恋は永遠に冷めない)、ニューオーリンズのローリングピアノに惹かれてニューオーリンズへ(と、ここで私は”Dr. John Plays Mac Rebennack”をかける。ああ、ガンボ料理を食べながらころころ転がるニューオーリンズピアノを生で聴きたいものだ)。

もうひとつ大きな要素として、これはもっぱらここ数年私が興味を持って追いかけてきたことなのだけれども、端的に言えば、この島が「見えない世界に対峙する知の体系を持った社会」であるということが挙げられる。

辻に置かれたお供え物

数年前、ある巡り合わせから「陰陽師」に出会った。岡野玲子の漫画と夢枕獏の小説である。この作品は平安時代の実在の人物、安倍晴明を主人公にしたフィクションなのだけれども、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」に題材を取っていて、ものすごくおもしろい。「今昔物語」や「宇治拾遺物語」なんて学校の歴史の授業で名前だけは習ったけれども退屈な「古典」だと思っていた。ところがどっこい、意外に通俗的だったり、奇想天外な話やまがまがしい話があったりして、生き生きとして本当におもしろいのである。これは「古事記」や「日本書紀」にも言えることなのだけれども。

さて陰陽道というのは、大和朝廷の頃日本に伝播した「国家安寧のために使用された秘宝秘術」であり、「蜥易、八卦、五行、十干十二支、天文、遁申、暦法、そして数々の呪り、巫術、呪禁などの複合技術」であって、飛鳥時代末期、天武天皇の時代には律令体制に組み込まれて「陰陽寮」という官庁が誕生した。陰陽寮は、陰陽道(国家・禁中に関する土地の吉凶判断や占いを行う)、暦道(暦作りを司る)、天文道(天文・気象を観測)、漏刻(時刻を管理)に分かれ、ここに務める陰陽師たちは国家公務員だった。(「安倍晴明 陰陽道 音霊占い 六神之奥義秘法」真山英子監修・執筆/扶桑社刊より要約・抜粋)

歴史の教科書にも登場する安倍晴明は、この陰陽寮で活躍した陰陽師であり、不思議な力を持っていたと言われ、謎の多い人物として知られる。

私はこの、闇がほんとうの闇だった時代、魑魅魍魎がうごめく百鬼夜行の世界、呪術や魔術合戦が繰り広げられる世界、天体の運行と人々の生活が密接なものであった時代、つまり「見えない世界に対峙する知の体系を持っていた」かつての日本にすっかり魅了され、安倍晴明を巡る旅までしてしまった。(そのときの記録はこちらです。興味のある方はご覧ください。)
http://picasaweb.google.com/riebrasileira/tDGenD#


バリのカレンダー

日本の社会は‘発展’の過程で闇を追いやってしまったように見える。陰陽師が活躍した時代は遠い過去のものである。

ところが、バリではその世界が21世紀の今も生きている。人々は生活の3分の1くらいの時間を神々に感謝し、悪霊をなだめることに費やし、善と悪のバランス(まさに陰陽である)を取って生きている。バリ版陰陽師とも言うべき僧侶は、複雑な暦の体系に通じ、吉凶を占い、マントラを唱え手印を結んで儀式を司り、悪霊を祓う。バリアン(シャーマンとも呪術師とも訳される)は呪術や医術を司る。黒魔術が暗躍し、白魔術が応戦する。チャロナランという、祭礼のときに行われる善と悪の拮抗を表す劇の最中に、人々はトランス状態に陥る。僧侶や呪術師の「虎の巻」であるロンタルという古文書には、「暦のことのみならず、儀式、医学、魔術、歴史、文学、音楽、舞踏など、生活と芸術に関するあらゆる情報が記されている」(「バリ島不思議の王国を行く」大竹昭子・内藤忠行著 新潮文庫刊)。

バリの社会は日本が別の‘発展’の仕方をしていたら、こうなったかも知れない社会、パラレルワールドのようにも思える。まるで陰陽師の時代が現代に蘇ったかのようで、私にはまったく興味が尽きないのである。

2009年3月29日日曜日

A House In Bali

コリン・マックフィー住居跡からの眺め

1930年代のバリに心惹かれる、という話は事ある毎に触れてきた。二つの大戦にはさまれたこの時代は、ドイツ/ロシア人画家/音楽家ウォルター・シュピース初め、メキシコ人画家コバルビアス、オランダ人画家ルドルフ・ボネ、人類学者ベイトソン・ミード夫妻など、この島に魅了された西洋人芸術家、人類学者たちが島を訪れ、長期滞在し、この島の芸能に影響を受けるとともに、影響を与えた時代であり、それぞれがそれぞれの分野で様々な著作を残している。

そんな中で、ガムランの音に魅せられてバリ島にやってきたカナダ人音楽家コリン・マックフィーの著書「A House In Bali(邦題:熱帯の旅人〜バリ島音楽紀行)」(大竹昭子訳 河出書房新社刊)は、私の興味の直球ど真ん中の内容であり、大変興奮した。いつまでも読み終わりたくなくて、結局2度読み返しただけでは飽きたらず、コピーをとって、今も何度も読み返している。

コリン・マックフィーは駆け出しの作曲家だったが、あるとき偶然レコードで耳にしたガムランの音に魅了され、はるばるバリ島までやって来る。そしてついには当時はド田舎だったウブド近郊のサヤン村に家を建て(A House In Bali)、通算で5年間滞在する。あちらの村に古い楽器が眠っているらしいと聞けばキャンプをしてでも探しに行き、こちらに古い曲を知っている人がいると聞けば教えを請いに行き、様々な音楽家や舞踏家や芸能のパトロンである王たちと親交を結び、解散した楽団を復活させたり、自分の村に新しい楽団を創設したり、舞踏家を育てたりしてしまう。この本にはそんなエキサイティングな日々が、音楽家の鋭い耳と感性で、実に生き生きと、詩情とユーモア溢れる筆致で綴られている。

この人の素晴らしいところは、この地域の通商用語であり比較的習得が容易なマレー語だけでなく、マレー語が通じないサヤン村に住んだために、複雑な敬語体系があって習得が難しいと言われるバリ語まで学んでしまったところで、その彼の口から、地元の人々の会話が生き生きと描かれ、様々な曲の題名や劇の筋を解き明かしてくれるのだから、バリ文化の恰好の案内書でもある。

そのとき採集したバリ島中の音楽を、彼はその後20年余をかけて「Music in Bali」という「電話帳ほどの厚みがある」という大著にまとめ、後年はUCLAの音楽学科および民族音楽科の教授に迎えられたというが、こちらが学術書であるのに対して、本書の方は、まるで映画を観るように、彼の目を通して1930年代のバリが見えるような気がする。

数多い印象的なフレーズの中で、バリの音楽の本質を言い表していると思われる一節がある。少し長いが引用したい。

「 こうして毎晩様々な曲を聴き続けるうちに、バリの音楽の法則や形式や構造が、ようやくつかめてきた。私は村人とおしゃべりしたり、採譜したり、遠出していろんな音楽に出会ったりしながら、謎を解いてきたこれまでの道のりを思い返した。今やするべきことはすべてし尽くしたようだった。パズルのコマは収まるところに収まった。ミステリーは解決された。
 しかし本当にそうだろうか、という思いも一方にはあった。確かに私はバリの音楽について新たな原理と法則を手にしたようだった。そのみずみずしさや精巧さに私は興奮し、これまで集めた資料を元に、私なりにバリの音楽を分析して本に著したいと考えた。それを思うと思わず胸が高鳴った。だがルバの奏でる繊細な太鼓の響きや、新たな創作意欲を感じさせるロットリングのまばゆい旋律を聴いていると、バリ音楽の究極的な本質や特徴は、とらえようにもとらえきれないもののような気がしてくるのだった。」

だからこそ、今もバリの音楽は私を含め、多くの人々を魅了せずにはおかないのだと思う。

大竹昭子さんの翻訳がまた素晴らしい。バリ島の文化に精通し、その方面の著書もあり、ご自身が素晴らしい書き手でもある訳者ならではの、深い理解と愛に基づく名訳である。

さて、彼が暮らし、当時はド田舎だったサヤンは、今や高級リゾートが立ち並ぶ一帯となっている。本書を頼りに彼の住居跡を探してみた。当たりをつけて、あるリゾートに聞いてみると、何と「ここですよ」と言う。今は改築されてリゾートの一部となっているが、お願いしてその家を見せてもらった。本書にある通り、「墓地の横のそそりたった崖の上」にあり、「建物は崖のきわに建っており、急勾配の屋根の切り窓から、険しい渓谷をうねっていく川の様子が、まるで飛行機から眺めるように見渡せた」。この景色は80年近く経った今も余り変わっていないのではないかと思われた。この場所で、この本に書かれている魅力的な光景の数々が繰り広げられたのだと思うと感動が込み上げ、私は心の中で、そこにいるような気がするコリン・マックフィーさんの魂に話しかけた。

2009年3月8日日曜日

クタビーチホテルへようこそ


仕事が閑なのをいいことに、読書三昧の日々を送っている。ほぼ1日1冊の割合で読んでいるが、最近読んだ中では「クタビーチホテルへようこそ」(古谷野洋子著/新風舎)という小品が個人的に良かった。

「クタビーチホテル」という伝説のホテルに興味を持った著者が、このホテルを巡る二冊の本を基に関係者へのインタビューを進めるうち、そこに繰り広げられた人間模様が明らかになっていく、というもので、その時代背景がまさに私が憧憬する1930年代のバリなのである。

実は「クタビーチホテル」にはかねてから興味を持っていた。半年ほど前、ネカ美術館の写真展示室で、1930年代のバリの芸能を写した素晴らしい一連のモノクローム写真を見た。そこには伝説のクビャールの踊り手マリオが子どもに稽古をつける姿や、ケチャの発展に大きく貢献したという偉大なるバリスの踊り手リンバックのまさに神がかった姿が映し出されていて、私は随分興奮したものである。その写真の出所を見ると、”Our Hotel In Bali” (Louise Koke著)とあった。調べてみると、若いアメリカ人夫妻(コーク夫妻)が資金もホテル経営の経験も知識もないままにいかにして1930年代にクタ初のホテル「クタビーチホテル」を開いたかという物語であるという。いつか読んでみたいものだと思っているうちに、先にこの「クタビーチホテルへようこそ」に巡り会った。この本が基にしている二冊の本のうち一冊がその”Our Hotel In Bali”であり、もう一冊はK’tut Tantriという人が書いた”Revolt In Paradise”という本である。

この本によると、「クタビーチホテル」は”Our Hotel In Bali”の著者コーク夫妻と”Revolt In Paradise”の著者クトゥット・タントリのパートナーシップで始まったが、後に両者の関係は決裂し、分裂して、それぞれがそれぞれの「クタビーチホテル」を目と鼻の先で運営するに至ったらしい。つまり、「クタビーチホテル」は2軒あったという。

このクトゥット・タントリなる人物がまた興味深い。実はこの人、アメリカ人女性である。アメリカで観たバリの映画に心引かれ、全財産を持ってバリにやって来たが、当時のバリを支配していたオランダ人官吏の干渉を嫌い、バンリの王家と巡り会ってラジャ(王)から家族同然に受け入れられ、この名前を拝命した、という。本名はヴァンニーン・ウォーカー、又の名をミス・マン、ミュリエル・ピアソンといい、日本支配時には抗日レジスタンス運動に参画し、インドネシア独立戦争時にはインドネシアのために闘ってスラバヤ・スーと呼ばれた、という。何という破天荒な女性か。

コーク夫妻とクトゥット・タントリのそれぞれの著書の中で「クタビーチホテル」が言及されるとき、お互いの元パートナーの話はまったく無視されていて、「クタビーチホテル」が2軒あったことなどももちろん言及されていないようだ。ただお互いと思われる人物はそれぞれ名を伏せて登場していて、それによるとクトゥット・タントリはコーク夫妻のビジネスを裏で大分妨害したらしい。燃えるような赤毛からミス・マン(「マン」はバリ語で猫のこと)と呼ばれた彼女の、気性の激しさが伺えるエピソードである。

著者はこの2冊の本に加えて、”Bali, A Paradise Created” (Adrian Vikers著)、”A House In Bali” (Colin McPhee著)などの文献にあたり、更に関係者たちにインタビューを試みるが、たまたま出会った老人が「クタビーチホテル」の元コックだったり、たまたまコピー屋で会った人がクトゥット・タントリの晩年を知っていたり、とバリらしい「偶然」に導かれていく。この過程もまた面白い。

この「クタビーチホテル」を巡るエピソードを通して、1930年代のバリという時代が見えてくる。この地に魅かれて移り住んだ西洋人芸術家たち、オランダ支配、バリの王族、戦争の影、日本軍の上陸…。その後第二次大戦に突入し、コーク夫妻とクトゥット・タントリそれぞれの夢の結晶「クタビーチホテル」は影も形もなく破壊された。西洋人たちは本国へ逃れたり、日本軍の収容所に入れられたり、そのままバリに残ったりとそれぞれの末路を辿った。「クタビーチホテル」はまさに1930年代のバリを象徴する存在だったのだと思えてならない。

クトゥット・タントリがその後どうなったのか明らかでないが、彼女に関するエピソードの中で私がとても心引かれたことばがある。彼女にバリ名を与えたラジャの娘にあたる老女の証言である。

「ミス・マンはラジャに恋してしまったの。ラジャが行く所ならどこにでも付いていった」

「ミス・マンはインドネシアのムルデカ(独立)のために闘った。ミス・マンはインドネシアに恋していたからね。ラジャとインドネシアに」

日本軍の拷問にも耐え抜いて、インドネシアの独立に尽くした、破天荒で気性の激しい彼女の、強さの源が見えた気がするからだ。

2009年3月5日木曜日

Eat, Pray, Love


二人の友だち、オランダ人のRさんとアメリカ人のLさん(いずれも女性)に別々のタイミングで同じ本を薦められた。ベストセラーになっている”Eat, Pray, Love”というその本を、海辺での休暇中に一気に読んだ。

ライターを職業とする著者の女性が私的な体験を描いたもので、人も羨むようなキャリアと結婚生活を持つ彼女が、30歳を目前に「そろそろ子どもを持って家庭に納まる」という夫から期待されている役割をどうしても受け入れられずに悩んだ挙げ句、家を出る。前後してソウルメイトのような若い恋人ができるが、強く惹かれ合いながらも、二人の関係はうまくいかない。離婚問題の泥沼化と恋人との問題で精神的に参った彼女は、仕事を辞め、1年間の旅に出ることを決意する。
最初の4ヶ月はイタリア、ローマで、実用性はないけれどもその音が好きだというだけの理由でイタリア語を学び、イタリアの食を堪能する(Eat)。
次の4ヶ月はインドのアシュラムで、瞑想とヨガの禁欲的な日々を送る(Pray)。
最後の4ヶ月はバリ島ウブドのバリアン(メディスンマン)のところに通って、英語を教えながら、彼のアシスタントのようなことをする。そのうちブラジル人の男性と知り合って恋に落ち、現在はアメリカとブラジル半々で暮らしている(Love)、という話である。

結論から言うと、私は勧めてくれた友だちほど刺激を受けなかったのだけれども、驚いたのは自分に関係のあることが余りに多かったことである。

その1. 実は私の大学の専攻はイタリア語である。それも音が好きだというそれだけの理由で選んだ。
その2. この本を読む直前まで、ヨガ教師認定取得コースの通訳の仕事に入っており、ヨガとか瞑想という話題はとても身近なものだった。
その3. バリ島ウブドの部分は、まさに今の自分の生活圏である。
その4. ブラジルは私が大学の卒業式の翌日から1年間を過ごした愛着のある国であり、第二の故郷と慕っている場所である。

そういう意味では、このタイミングでこの本を読んだことに不思議なご縁は感じるのだが、なぜ私にとってそこまで刺激的ではなかったのか。
勧めてくれた友だちほど英語の言葉の妙を味わえないからか。
離婚や失恋の心の痛手は当人にとってみたら地獄の苦しみだけれど、世界で多くの人たちが苦しんでいる戦争や飢餓や天災や犯罪や病気というもっと理不尽な問題から見ればちっぽけなことだと思ってしまうからか。
1年間の旅の体験を書く、という出版社との契約付きの旅の仕方にマーケティングの匂いを感じてしまうからか。
著者が親友になるバリ伝統医療のヒーラーの女性が、実際会ってみたら感じが悪くて失礼だったからか。
多分そのどれも理由の一部ではあるのだが、最もしっくりする理由が見つかった。
つまり、旅文学としては沢木耕太郎の「深夜特急」が面白すぎるのである。

まあでもこれはあくまで私の好みの問題で、一人の女性がもがいてもがいて出口を見つけていく過程を正直に見つめた記録としては、人の心に響くものがあるのだろう。私にとっては、好きなことは実用性など考えずやっちゃっえ、という彼女の痛快な決断の部分の方が刺激になったけれども。

そんなわけで、興味のある方はご一読ください。

2008年12月9日火曜日

バリ学ノススメ


バリについてもっと深く知りたい病に罹り、大枚はたいて「バリのヒンドゥー教」という講座を受けてみたものの、期待外れの結果に終わりがっかりしていた私だったが、その後、恰好の教科書を見つけた。バリのある村に長く暮らし、地元の共同体にしっかり馴染んだアメリカ人夫妻によって書かれたこの本は、素晴らしい観察眼と博識で、私の知りたいことに見事に答えてくれる。私は目下この本で、バリ学勉強中である。

2008年10月30日木曜日

カリブ海と豆腐屋


ハードコアバックパッカーで物書き志望の私の友人Aは、どんなものを書きたいのかという私の問いに、沢木耕太郎の「深夜特急」のようなのが書きたいのだ、と答えた。

旅文学の金字塔と言われるこの書を、私は読んだことがなかったが、チェンマイのアパートの本棚で、分冊のうち1冊を見つけたので読んでみたら、これがとてもおもしろい。

ご存知の方には分かりきった説明になるが、これは著者が26歳のときにユーラシア大陸を放浪したときの記録で、新潮文庫版では、6分冊になっている。チェンマイで私が読んだのは、5-トルコ・ギリシャ・地中海編だった。

そして先日、日本語の本が読みたくなると行く貸本屋で、今度は2-マレー半島・シンガポール編を見つけた。これも内容のおもしろさは言うまでもないのだが、本筋と外れたところで、私が膝を打って笑ったところが2箇所あるのでご紹介したい。

1箇所は、沢木耕太郎さんがなぜ旅に出ることになったかといういきさつのところで、それは「口からでまかせの言い逃れから始まった」のだという。沢木耕太郎さんは大学を出て一度大企業に就職するのだが、入社初日に「雨のせいで」辞めてしまう。心配した大学のゼミの教官の紹介でルポルタージュを書く仕事を始めてみると、意外にこれがおもしろくて3年ほどは楽しく過ごす。ところが思いがけず一冊本が出たあたりから仕事が殺到するようになり、「職業的な書き手になりたくなくて」、仕事を断る口実に「外国に行くので受けることができない」と言い始めた。事情を知らないお母さんは、息子への問い合わせの電話がかかってくる度に曖昧に受け答えしていたのだが、ある時、「決然と申し渡されてしまった」のだそうだ。「私はもう弁解したり嘘をついたりするのはいやだから、とにかく日本を出ていってくれないか、どこでもいいから外国とやらに行ってくれないか…」と。それで沢木さんはすべてを投げ打って旅に出てしまうのだ。

なんて背筋の真っ直ぐな、懐の大きいお母さんなんだろう。私はかなりお母さんのファンになった。

もう1箇所は、巻末に掲載されていた沢木耕太郎さんと高倉健さんの対談。それぞれの分野の第一人者でありながら、好奇心を失わず、人間的魅力に溢れた二人の、お互いに対する敬意が滲み出た、とても素敵な対談なのだが、かっこいいと思う死に方について沢木さんに問われた高倉さん曰く、
高倉:(前略)なんだかカリブ海に潜りに行ったまんま上がってこないよ、というのが一番いいですね。
沢木:…………。

今度は、書く仕事以外に一番やりたい仕事は何かと高倉さんに問われた沢木さん曰く、
沢木:(前略)豆腐屋さんになりたいわけです。(後略)
高倉:豆腐屋さん……。

さすが大物の二人である。

2008年10月27日月曜日

Bali in the 1930s


とても欲しいのだが買えない本がある。「1930年代のバリ」という写真集。高価だということもあるが、旅人は荷物が増やせない。重くてかさばる本は最も買えないものである。どうしても読みたくて借りられないものは、売るつもりで買うのだが、写真集のような保存版のものはそういう気にならない。そんなわけで、いつも本屋でこの写真集の表紙を物欲しげに眺めている。

さて、なぜこの写真集がそんなに欲しいかというと、1930年代のバリにとても興味があるからだ。

オランダは1597年にバリ島を「発見」したが、19世紀に入るとインドネシア諸島を植民地化し貿易を独占するために、力ずくでバリ島支配に乗り出してきた。19世紀半ばから半世紀にわたる戦争の末、列強への屈服を拒否するバリの王族たちは名誉と尊厳を守るため玉砕の道を選び、壮絶な死を遂げたという。このダーティなイメージを払拭するため、オランダはバリ島を観光地としてプロモーションし始めた。1930年代にはクルーズ船や億万長者たちのヨットが定期的に訪れていたという。

こうした時代を背景に、この島に魅せられたロシア-ドイツ人芸術家ヴァルター・シュピース、オランダ人画家ルドルフ・ボネなど、ヨーロッパの芸術家たちが住み着き始め、バリ絵画のスタイルに大きな影響を与えた。シュピースは今のケチャの形式を考案した。1930年代のバリは、ヨーロッパとバリのアートが混血し、新たなものが胎動する、そんな時代だったのだと思う。

この辺りの話に興味のある方は、「バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝」(坂野徳隆/著 文遊社/刊)という本が素晴らしかった。是非ご一読ください。

2008年10月18日土曜日

フランジパーニ(香りの記憶)


8年前に初めてウブドを訪れたとき、空気の中に混じっている甘い花の香りに陶然となった。その香りを持って帰りたくて、イメージの近いブレンドのマッサージオイルを買って帰ったのだが、当然のことながらしばらくしてそのオイルは使い切ってしまった。

それ以来、その香りを探し続けていたのだが、考えてみれば香りを探すというのはとても難しい。音楽ならば歌ってみせることもできるし、歌詞を手掛かりにインターネットで検索することもできる。でも香りは表現のしようがない。

再会は去年、意外なところで訪れた。飯田橋のネイルサロンである。爪用オイルの香りに、「あっ!」と記憶が蘇った。もちろんそのオイルを買って帰ったが、それが何の香りなのかは、相変わらず分からないままであった。

ようやく香りの主に辿り着いたのは、今年の1月、チェンマイだった。お寺を散歩していたときに、前々からとても好きだった花が地面に美しく散っていたので拾い上げてみたら、それがまさにあの香りだったのである。何のことはない、顔と香りを別々に知っていたのだった。

フランジパーニ。ハワイではプルメリアと呼ばれる可憐なこの花は、インドから東南アジア一帯、ハワイに生息するが、意外に原産地はメキシコからカリブ海一帯だという。タイではよくお寺に植えられており、ラオスではチャンパと呼ばれて国花になっている。バリではジェプン・バリと呼ばれるそうで、よく宗教儀礼に使われる。

白いビロードのような花びらの中心が、うっすらと黄色く色づく。清楚で可憐な外観とは裏腹に、甘く官能的な香りを放つ。この花が私はとても好きである。

蛇足になるが、香りと言えば、「香水」という素晴らしい小説がある。Patrick Süskindというドイツ人作者のプロットもストーリーテリングの手法も見事なら、池内紀さんの翻訳も秀逸である。未読の方は是非、秋の夜長にお楽しみ下さい。

2008年10月12日日曜日

黄金の音色


私の部屋は夜になるとガムランが聞こえてくることがある。家にいながらガムランが聴けるなんてなんてぜいたくなんだろう、それにしてもあの音はいったいどこから聞こえてくるのかしら、と常々思っていた。昨日はいつになく朝から、かなり大きな音量で聞こえてきて、空気が金粉で満たされるようでうっとりした。子守のKさんに聞いてみたところ、その音の出所は近くの高校で、高校生たちの練習だということが判明した。さすがはウブドである。

さて、「空気が金粉で満たされる」と書いたが、これには元ネタがあって、私の持っているガイドブックがガムランを「黄金のような音色をまき散らす」と表現しているのである。適確な表現だなあと感心していたら、思い当たったことがある。

ニューサイエンスの旗手、ライアル・ワトソンの「未知の贈りもの」という名著の中に、著者がインドネシアの小島(名は明かされていない)で出会ったティア(仮名)という少女の話が出てくる。彼女には超常的な力があって、未来を予知したりするのだが、音を色で表現するのである。本が手元にないので具体的に引用できなくて残念だが、サギの鳴き声や、波の音、人の声が、色として見えるのである。著者は最初、詩的な表現だと思って聞いているが、どうも違うらしいということに気付く。少女にたずねると、かえって「あなたには見えないの?」と驚かれるのである。

後で別の本を読んで知ったのだが、この現象を「共感覚」というらしい。大半の人間には五感があって、普通はそれぞれが分離されているが、これが未分化で、ある感覚と別の感覚が融合している人が、ティアのように超常的な能力がなくても、稀にいるそうだ。融合のパターンにはいろいろあって、ティアのように音を色として知覚する人もいれば、味を形として知覚する人もいる。

私のように五感が分離されている大半の人も、根っこの方ではまだつながっていて、太古の記憶のように、融合した感覚を感じることができるのではないか。ガムランの黄金色を私たちはかすかに「見て」いるのだと思う。

(この原稿を書いているときに、ライアル・ワトソン博士が今年の6月25日に69歳で亡くなっていたことを知った。心からご冥福をお祈りします)

2008年5月30日金曜日

ジム・トンプソン マニア!(前編)

私はジム・トンプソン マニアである。2002年に初めてタイを訪れたとき、ガイドブックの片隅に載っていたこんな内容の文章に私の目は釘付けになった—ジム・トンプソンシルク商会はバンコクの高級シルクブランドだが、当主のジム・トンプソンは1967年休暇で訪れていたマレーシアのキャメロン・ハイランドで行方不明になったまま、今も行方が分かっていない—。そんなことってあるの!?果たして、そんなことはあったのである。

バンコクのジム・トンプソンシルク商会本店に足を運んでみると、”Jim Thompson – The Unsolved Mystery(ジム・トンプソン—解けない謎)”(William Warren著)という本が売られていた。私は早速購入し、夢中で読んだ。そこには、第二次大戦のときにCIAの前身、OSSの一員としてタイにやって来た若いアメリカ人建築家が、タイに魅せられてそのまま居着き、やがてタイシルクの可能性を見出して、廃れつつあったそれを国家産業にまで育て上げた経緯、彼が忽然と姿を消した「運命の日曜日」以降の混迷の捜査の様子、乱れ飛んだ様々な憶測が、克明に描かれていた。そして私は益々ジム・トンプソンに惹かれたのである。

なぜ自分がこの人にこんなに惹かれるのかと考えてみると、いまだに解けない謎という吸引力以外に、もうひとつ大きな理由があることに最近気付いた。私は、どうもこういう、「本国を遠く離れたエキゾチックな国の魅力に惹かれ、そこに居着いてしまう」エグザイルな人たちに惹かれるようだ。本国フランスを離れタヒチに居着いた画家のポール・ゴーギャンや、ドイツを離れバリに居着いて今のケチャの形を作ったウォルター・シュピースのように。J-WAVEのナビゲータ、ロバート・ハリスさんが自らの旅の経験を綴った「エグザイルズ」という本を、そう言えば、私は初めてバリに来た2001年に、ウブドの古本屋で見つけ、帰りの飛行機で夢中になって読んだ。ロバート・ハリスさんは当時、まさにウブドで、その名も「エグザイルズ」という店を共同経営していたようだ。

ジム・トンプソン マニア!(中編)





話が大分逸れたが、その本を読んで以来、一度行ってみたいと思っていたキャメロン・ハイランドに、ついに行ってきた。マレーシアの軽井沢とも言われる高原の避暑地キャメロン・ハイランドは、最近日本の退職者の海外長期滞在先としても人気が高い。紅茶の栽培で有名で、美しい茶畑が広がっている。

ジム・トンプソンが滞在していて散歩に行くと言ったまま姿を消した「月光荘」は、車通りから大分山の中に小道を登った行き止まりの高台にあって、周りは鬱蒼としたジャングルである。今は廃屋になっているが、往時のチャーミングさは今でも感じられる。軍隊でサバイバル訓練を積み、ジャングル歩きが趣味だったというジム・トンプソンが、確実にこの道を歩いたのだと思ったら、背筋がゾクッとした。地元のタクシーの運転手さんに「1967年に彼が失踪した後の大捜索のことを覚えていますか?」と聞いたら、「小さかったからねえ」と言われた。

ジム・トンプソン マニア!(後編)

キャメロン・ハイランドを訪れたことで、私のジム・トンプソン熱は再燃し、ちょうど日本から遊びに来る友だちに、実家に置いてあった原書と、この事件をモデルに書かれた松本清張の小説「熱い絹」を持ってきてもらった。この私のジム・トンプソン熱は幼なじみのRちゃんにも飛び火し、彼女も「熱い絹」と、図書館の書庫に眠っていた”Jim Thompson – The Unsolved Mystery”(William Warren著)の和訳本、「失踪―マラヤ山中に消えたタイ・シルク王」(吉川勇一 訳)を探し出して読んでいる。