いつも行く食堂にお昼を食べに行ったら、大通りで何かが行われているらしい。たくさんの人が見物に駆けつけている。何だろう、ウパチャラ(祭礼)かしら、でもそれなら日常茶飯事だからこんなに人が騒ぐはずもない、もしかして映画の撮影か何かかな、バリの人たちだって現代っ子だもんな、などと勝手にあれこれ想像を巡らしながら、食事を済ませて大通りに出てみると、私が甘かった。それはやはりウパチャラだったのだ。それも特大級の。王族の火葬祭礼だったのである。
以前も書いたが、バリの火葬は盛大で、明るい。黒い牛のハリボテと遺体を収めたやぐらのようなものが人々に御神輿のように担がれ、打楽器隊が奏でるサンバのように賑やかなリズム(後で気付いたのだが、それはケチャのリズムだった)に伴われて、火葬場へと向かう。王族ともなれば行列の規模も桁違いに大きく、やぐらなどはまるで五所川原の立倭武多のような高さである。消防車が伴走し、容赦なく照りつける太陽に汗だくの人々に水をかける。
火葬場に着くと、やぐらに収められていた遺体が黒い牛のハリボテに移され、様々な儀礼的手順が踏まれた後、盛大に燃やされる。
こんな光景に日常的に遭遇してしまうバリはやっぱりおもしろい。私は当分この場所を離れられそうにない。
2008年10月30日木曜日
カリブ海と豆腐屋

ハードコアバックパッカーで物書き志望の私の友人Aは、どんなものを書きたいのかという私の問いに、沢木耕太郎の「深夜特急」のようなのが書きたいのだ、と答えた。
旅文学の金字塔と言われるこの書を、私は読んだことがなかったが、チェンマイのアパートの本棚で、分冊のうち1冊を見つけたので読んでみたら、これがとてもおもしろい。
ご存知の方には分かりきった説明になるが、これは著者が26歳のときにユーラシア大陸を放浪したときの記録で、新潮文庫版では、6分冊になっている。チェンマイで私が読んだのは、5-トルコ・ギリシャ・地中海編だった。
そして先日、日本語の本が読みたくなると行く貸本屋で、今度は2-マレー半島・シンガポール編を見つけた。これも内容のおもしろさは言うまでもないのだが、本筋と外れたところで、私が膝を打って笑ったところが2箇所あるのでご紹介したい。
1箇所は、沢木耕太郎さんがなぜ旅に出ることになったかといういきさつのところで、それは「口からでまかせの言い逃れから始まった」のだという。沢木耕太郎さんは大学を出て一度大企業に就職するのだが、入社初日に「雨のせいで」辞めてしまう。心配した大学のゼミの教官の紹介でルポルタージュを書く仕事を始めてみると、意外にこれがおもしろくて3年ほどは楽しく過ごす。ところが思いがけず一冊本が出たあたりから仕事が殺到するようになり、「職業的な書き手になりたくなくて」、仕事を断る口実に「外国に行くので受けることができない」と言い始めた。事情を知らないお母さんは、息子への問い合わせの電話がかかってくる度に曖昧に受け答えしていたのだが、ある時、「決然と申し渡されてしまった」のだそうだ。「私はもう弁解したり嘘をついたりするのはいやだから、とにかく日本を出ていってくれないか、どこでもいいから外国とやらに行ってくれないか…」と。それで沢木さんはすべてを投げ打って旅に出てしまうのだ。
なんて背筋の真っ直ぐな、懐の大きいお母さんなんだろう。私はかなりお母さんのファンになった。
もう1箇所は、巻末に掲載されていた沢木耕太郎さんと高倉健さんの対談。それぞれの分野の第一人者でありながら、好奇心を失わず、人間的魅力に溢れた二人の、お互いに対する敬意が滲み出た、とても素敵な対談なのだが、かっこいいと思う死に方について沢木さんに問われた高倉さん曰く、
高倉:(前略)なんだかカリブ海に潜りに行ったまんま上がってこないよ、というのが一番いいですね。
沢木:…………。
今度は、書く仕事以外に一番やりたい仕事は何かと高倉さんに問われた沢木さん曰く、
沢木:(前略)豆腐屋さんになりたいわけです。(後略)
高倉:豆腐屋さん……。
さすが大物の二人である。
2008年10月29日水曜日
祈りの所作

今日はティラム(暗月)なので、バリの人たちは特別なお供えをしたり、神社にお参りしたりする。お昼頃、お隣のイブがお供えに来たので、「今日はティラムですか」と聞いたら、「ティラムで、カジャン=クリオン」だという。
私が何かというと参照する「バリ宗教ハンドブック」(吉田竹也/著)を見てみると、カジャン=クリオンというのは、バリで使われている3つの暦のうちのひとつ、ウク暦の行事で、3日週のカジャンと5日週のクリオンが出会う、15日毎にめぐってくる日であり、プルナモ(満月)とティラム(暗月)とほぼ同じ供物をつくって捧げる、とある。
いつも思うのだが、バリの人たちの祈りの所作はとても美しい。花で水をふりかけ、風を送り、その花を髪に挿す。その一連の動作は、信じられないほどしなやかで繊細な指の動きを見せるバリ舞踊に通じているように思う。
2008年10月28日火曜日
大きなカエル

いつこのお話をご披露しようかと大事に温めていたのだが、余りに温めすぎても旬を逃しそうなので、ここらでご披露しておくことにする。
ジョグジャのインドネシア語学校で知り合ったMKちゃんは、私の母校でインドネシア語を専攻する真面目な学生さんなのだが、実はものすごく天然でもあって、ジョグジャのIさんと私は密かにMKちゃんファンクラブを結成しているほどである。
先日彼女からいただいたメールにこうあった。ご本人の了承を得て転載する。
『りえさーん!!!ようやく宿題終わりましたあぁぁぁぁぁぁぁ(泣)~ 中略 ~ 宿題が終わった今はまるで大きなカエルと闘ったような疲労感です。』
へ? カエル???
宿題が終わった疲労感をこんなふうに表現する人を、私はMKちゃんの他に知らない。
このお話を披露したいがために、イメージに合う絵を求めて、街中を走り回ってしまった。
2008年10月27日月曜日
Bali in the 1930s

とても欲しいのだが買えない本がある。「1930年代のバリ」という写真集。高価だということもあるが、旅人は荷物が増やせない。重くてかさばる本は最も買えないものである。どうしても読みたくて借りられないものは、売るつもりで買うのだが、写真集のような保存版のものはそういう気にならない。そんなわけで、いつも本屋でこの写真集の表紙を物欲しげに眺めている。
さて、なぜこの写真集がそんなに欲しいかというと、1930年代のバリにとても興味があるからだ。
オランダは1597年にバリ島を「発見」したが、19世紀に入るとインドネシア諸島を植民地化し貿易を独占するために、力ずくでバリ島支配に乗り出してきた。19世紀半ばから半世紀にわたる戦争の末、列強への屈服を拒否するバリの王族たちは名誉と尊厳を守るため玉砕の道を選び、壮絶な死を遂げたという。このダーティなイメージを払拭するため、オランダはバリ島を観光地としてプロモーションし始めた。1930年代にはクルーズ船や億万長者たちのヨットが定期的に訪れていたという。
こうした時代を背景に、この島に魅せられたロシア-ドイツ人芸術家ヴァルター・シュピース、オランダ人画家ルドルフ・ボネなど、ヨーロッパの芸術家たちが住み着き始め、バリ絵画のスタイルに大きな影響を与えた。シュピースは今のケチャの形式を考案した。1930年代のバリは、ヨーロッパとバリのアートが混血し、新たなものが胎動する、そんな時代だったのだと思う。
この辺りの話に興味のある方は、「バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝」(坂野徳隆/著 文遊社/刊)という本が素晴らしかった。是非ご一読ください。
2008年10月26日日曜日
練習風景
魂を揺さぶられる情景というのがある。私の場合それは多分に音楽や、ものが創り出されるときと結びついている。先日ぶらぶらしていたら、王宮で女性たちに よるガムランと子どもたちによる踊りのグループのリハーサル風景に出くわした。5人ほどの男性が指導にあたっている。それは感動的な光景だった。ガムラン には楽譜がなく、師匠と対面でひたすら真似ることによって耳と体で覚えていくしかないのだという。見えない音を全員で耳を澄まして追いかけ、指導し、指導 され、創り上げていく姿がそこにあった。私は魂をつかまれ、しばらくそこを動くことができなかった。
周囲には子どもたちが遊び回っており、こうしてこの子たちは、自然にこの音や動きを体に染みこませていくのだろう。2000年生まれ以降の子どもたちに、こうして伝統は日々、受け継がれているのだ。





周囲には子どもたちが遊び回っており、こうしてこの子たちは、自然にこの音や動きを体に染みこませていくのだろう。2000年生まれ以降の子どもたちに、こうして伝統は日々、受け継がれているのだ。





2008年10月25日土曜日
コンクール
ここのところ毎日近くの高校からガムランの練習の音が聞こえてきていて、私はかなり幸せな時間を過ごさせてもらっていたのだが、今日はいつにも増して演奏の間に大きな歓声が聞こえたり、どよめきが聞こえたり、アナウンスが聞こえたりするので、これはきっとバリ中の高校生が集まってコンクールが行われているのに違いないと思って、子守のKさんに聞いたところ、何と校内のクラス対抗ガムランコンクールのようだ、と言うではないか。え!?クラス対抗!!???バリの芸能の層の厚さを、改めて思い知らされた。コンクールは朝から夕方まで一日続いたのだ。
2008年10月24日金曜日
2008年10月23日木曜日
2008年10月22日水曜日
2008年10月21日火曜日
チャンプールを食べて、チャンプルーを思う
本格的な雨期の到来とみえて、日中かなり暑く、湿度も上がってきた。
さて(強引な展開である)、インドネシアには「ナシ・チャンプール」という食べ物がある。「ナシ」はご飯のこと。「チャンプール」は「混ぜる」という意味。写真のように、ご飯の上にいろんなおかずが乗っている。
沖縄には「チャンプルー」という料理がある。ゴーヤチャンプルーとか豆腐チャンプルーとか、混ぜこぜ炒めのことである。
わが日本語にも「チャンポン」という言葉がある。ビールと焼酎をチャンポンで飲む、とか、英語と日本語をチャンポンで話す、とか言う。
このチャンプール、チャンプルー、チャンポンはどう見ても同語源であり、語源は福建語など諸説あるそうで、朝鮮語、北京語にも似た言葉があるらしい。
そうなるとかなり広い範囲にこの言葉は存在していることになる。
一体どういう風にしてこの「混ぜこぜ」という言葉が伝播したのかと考えるとなんだかわくわくする。私の頭に琉球弧(うるま)という言葉が浮かぶ。かつて琉球王国は東シナ海の中継貿易を担い、日本、中国、朝鮮、東南アジアと広く交易を行っていたというから、案外そんなところから伝播したのかもしれない、と勝手に想像を膨らませる。
敬愛する音楽家、細野晴臣さんはかつて「チャンプルーミュージック」を標榜しておられた。
なんでもかんでも混ぜこぜにして、みんな仲良くおいしい感じが、とてもキャッチーである。
2008年10月20日月曜日
日々の暮らし
朝は暗いうちからにわとりが鳴くので自然と目が覚める。管理人さんが庭を掃く音を聞きながら、7時くらいには起き出す。
トーストを焼き、マンゴの皮をむいてスライスし、コピ・バリ(バリコーヒー)を淹れて朝ご飯にする。庭の前のジャングルに来るリスを眺めながら朝ご飯を食べていると、神棚に朝のお供えとお祈りをするために、お隣の別嬪さんのibuが通りかかる。
7時半には子守のKさんがやってくる。少しすると2階から2歳になる坊やがパパかママに連れられて下りてきて、子守のKさんにあいさつをする。
朝ご飯を片付けて、私は(入っていれば)仕事を始める。朝いちでヨガに行くこともある。
日中家にいるときは、子守のKさんと坊やのやり取りが私のBGMになる。近くの高校からガムランの練習が聞こえてきたりもする。風が入るようにドアを空けて仕事をしていると、坊やが飛び込んでくる。
お昼は大抵街まで出て、ナシゴレン(炒飯)とかエス・ジェルック(オレンジジュース)とかを頼む。ついでにスーパーで買い物を済ます。
午後の仕事を続けていると、夕方3時くらいから、今度は賄いのDさんがやってくる。この子守のKさんと賄いのDさんが、今のところ私のちっとも上達しないインドネシア語の練習相手であり、バリの文化の先生である。
Dさんの料理をする音がBGMに加わる。
夕方6時くらいになると、子守のKさんが帰るので、また明日ね、と挨拶する。
7時くらいになると、賄いのDさんが帰るので、また明日ね、と挨拶する。
私は夜の庭を眺めながら、Dさんの作ってくれたご飯を食べる。夜のBGMはカエルたちの鳴き声とゲッコーの鳴き声。最近は夜すごい雨が降ることが多いので、モーターバイクが濡れないように車庫にしまう。
そして夜が更けてゆき、また朝がやってくる。
そんな暮らしをしている。
2008年10月19日日曜日
2008年10月18日土曜日
フランジパーニ(香りの記憶)

8年前に初めてウブドを訪れたとき、空気の中に混じっている甘い花の香りに陶然となった。その香りを持って帰りたくて、イメージの近いブレンドのマッサージオイルを買って帰ったのだが、当然のことながらしばらくしてそのオイルは使い切ってしまった。
それ以来、その香りを探し続けていたのだが、考えてみれば香りを探すというのはとても難しい。音楽ならば歌ってみせることもできるし、歌詞を手掛かりにインターネットで検索することもできる。でも香りは表現のしようがない。
再会は去年、意外なところで訪れた。飯田橋のネイルサロンである。爪用オイルの香りに、「あっ!」と記憶が蘇った。もちろんそのオイルを買って帰ったが、それが何の香りなのかは、相変わらず分からないままであった。
ようやく香りの主に辿り着いたのは、今年の1月、チェンマイだった。お寺を散歩していたときに、前々からとても好きだった花が地面に美しく散っていたので拾い上げてみたら、それがまさにあの香りだったのである。何のことはない、顔と香りを別々に知っていたのだった。
フランジパーニ。ハワイではプルメリアと呼ばれる可憐なこの花は、インドから東南アジア一帯、ハワイに生息するが、意外に原産地はメキシコからカリブ海一帯だという。タイではよくお寺に植えられており、ラオスではチャンパと呼ばれて国花になっている。バリではジェプン・バリと呼ばれるそうで、よく宗教儀礼に使われる。
白いビロードのような花びらの中心が、うっすらと黄色く色づく。清楚で可憐な外観とは裏腹に、甘く官能的な香りを放つ。この花が私はとても好きである。
蛇足になるが、香りと言えば、「香水」という素晴らしい小説がある。Patrick Süskindというドイツ人作者のプロットもストーリーテリングの手法も見事なら、池内紀さんの翻訳も秀逸である。未読の方は是非、秋の夜長にお楽しみ下さい。
2008年10月17日金曜日
2008年10月16日木曜日
楽園幻想

過ごしやすい気候、肥沃な土壌、たわわに実る果物、色とりどりの美しい花々、きらびやかな文化、エキゾチックな儀式の数々、チョコレート色の肌をした美しい人々…。地上の楽園のように言われるバリだけれど、それは、私も含めて、先進国のお金を持ってきた人たちにとっての話だ。
子守のKさんに聞いても、賄いのDさんに聞いても、ドライバーのJに聞いても、生活は苦しい。お給料は少ないし、バリは外国人に人気なだけに土地がとても高い。物価も、私たちが安いと思っている店でも、地元の人にしたらとても高い。
“エキゾチック”な儀式の数々だって、当事者でない私たちは、その美しさだけを堪能することができる。でも土地の人たちにしたら、共同体がそれだけ強いということは、それだけ縛りがきついということでもある。生来根無し草の私などは、きっと逃げ出しているだろう。
ヒンドゥー教については何も知らないから言う権利もないけれど、カーストというものの存在は、やっぱり私にはちょっと受け入れがたいものがある。昨日Dさんご家族と参加させてもらった大きな神社のオダランの話を、ドライバーのJにしていて、「あの神社にはJも行くの?」と聞いたら、「あそこは高いカーストの人たちの神社で、Jの神社は別の神社だよ」と言われたのだ。
加えて、インドネシアは官僚の腐敗がすごく、袖の下文化である。こんなにビザの制度が不透明な国も、少なくとも私が知っている限りでは、ない。
今日、モーターバイクの免許証を取りに(インドネシアは国際免許に加盟していない)警察に行き、そのすごさを目の当たりにした。詳しくはここでは書かないが、いやなものをたくさん見て、かなり気分が滅入ってしまった。
それでも、穏やかな微笑みを絶やさず、接してくれる周りの人たちの心の温かさが、ほんとうの楽園かも知れない。
2008年10月15日水曜日
オダラン



どこかの神社*でupacara(儀式)があると聞く度に、興味津々にしていた私を気の毒がってか、下宿先の賄いのDさんが、彼女の家の屋敷神社(という言葉があるかは知らないが)のオダランに私を誘ってくれた。
オダランというのは神社の創立日に6ヶ月毎に行われる儀式で、バリは各村に3つの神社があるし、各家にも必ず屋敷神社(神棚のような小さなものも含めて)があるから、年中どこかでオダランが行われていることになる。
Dさんのお家には家の敷地の一角にかなり立派な屋敷神社があって、儀式は司祭を呼んで粛々と行われた。白い服を着た司祭が鈴を鳴らしながら、何事かを唱え、その誘導に従って、家の人たちは祈りを捧げたり、何か儀式的な所作をしたりする。私も見よう見まねで、手を合わせて頭の上に掲げたり、聖水に浸した花びらを指の間にはさんで、また頭の上に掲げたりする。儀式の最後には聖水を振りかけてもらい、米粒を額と喉の下と頭頂部につけ、食べて終わった。
屋敷神社の儀式が終わると、今度は街の大きな神社のオダランにお供えと祈りを捧げに行った。その神社にはたくさんの人たちが続々とお参りに詰めかけていた。
夜、別の大きな神社を通りかかったら、そこでもオダランが行われていて、やはり多くの人たちが詰めかけていたから、今日はきっとオダラン日和だったのだろう。
* “pura”という言葉は、英語では”temple”と訳されるので、日本語でも「寺院」と訳されるのが一般的ですが、バリの”pura”はヒンドゥー教の神々を祀っているので、仏教を連想させる「寺院」よりも、「神社」の方がしっくり来るような気がして、最近私はこちらを使っています。
2008年10月14日火曜日
2008年10月13日月曜日
2008年10月12日日曜日
黄金の音色

私の部屋は夜になるとガムランが聞こえてくることがある。家にいながらガムランが聴けるなんてなんてぜいたくなんだろう、それにしてもあの音はいったいどこから聞こえてくるのかしら、と常々思っていた。昨日はいつになく朝から、かなり大きな音量で聞こえてきて、空気が金粉で満たされるようでうっとりした。子守のKさんに聞いてみたところ、その音の出所は近くの高校で、高校生たちの練習だということが判明した。さすがはウブドである。
さて、「空気が金粉で満たされる」と書いたが、これには元ネタがあって、私の持っているガイドブックがガムランを「黄金のような音色をまき散らす」と表現しているのである。適確な表現だなあと感心していたら、思い当たったことがある。
ニューサイエンスの旗手、ライアル・ワトソンの「未知の贈りもの」という名著の中に、著者がインドネシアの小島(名は明かされていない)で出会ったティア(仮名)という少女の話が出てくる。彼女には超常的な力があって、未来を予知したりするのだが、音を色で表現するのである。本が手元にないので具体的に引用できなくて残念だが、サギの鳴き声や、波の音、人の声が、色として見えるのである。著者は最初、詩的な表現だと思って聞いているが、どうも違うらしいということに気付く。少女にたずねると、かえって「あなたには見えないの?」と驚かれるのである。
後で別の本を読んで知ったのだが、この現象を「共感覚」というらしい。大半の人間には五感があって、普通はそれぞれが分離されているが、これが未分化で、ある感覚と別の感覚が融合している人が、ティアのように超常的な能力がなくても、稀にいるそうだ。融合のパターンにはいろいろあって、ティアのように音を色として知覚する人もいれば、味を形として知覚する人もいる。
私のように五感が分離されている大半の人も、根っこの方ではまだつながっていて、太古の記憶のように、融合した感覚を感じることができるのではないか。ガムランの黄金色を私たちはかすかに「見て」いるのだと思う。
(この原稿を書いているときに、ライアル・ワトソン博士が今年の6月25日に69歳で亡くなっていたことを知った。心からご冥福をお祈りします)
2008年10月11日土曜日
2008年10月10日金曜日
インドネシア語考(その6):畳語(くりかえすことば)
散歩はjalan-jalan。どういたしましてはsama-sama。だいたいはkira-kira。男はlaki-laki。いろいろはmacam-macam…
インドネシア語には畳語(繰り返す言葉)が多い。
亀はkura-kura、蝶々はkupu-kupu、イルカはlumba-lumba、おみやげはoleh-oleh…
まるでポリネシア系言語のようである。
調 べてみると、オーストロネシア語族(台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族)には文法的機能をもった畳語が多いという。ポリネ シアっぽいという私の印象はなかなか的を射ていたことになる。そしてインドネシア語は複数を表すのに畳語が使われることで有名だという。
かわいいなあ、こんなにかわいい言葉で喧嘩ができるんだろうか…、と最初はいらぬ心配をした。
日本語の畳語は、
副詞的表現:「大体」、「色々」、「時々」など
名詞の複数を表す:「山々」、「村々」、「国々」、「人々」、「神々」、「日々」など
がある。
しかし、日本語の場合、この名詞の複数を表す用法は、畳語を形成できる名詞が慣用的に決まっていて、例えば「川々」とか「本々」とは言えない。
ところが、インドネシア語の場合、複数を表す文法的機能として、任意の名詞や形容詞で畳語が形成できるのである(但しルールがある)。
例えば、
ibu-ibu(おばさんたち)、pak-pak(おじさんたち)、anak-anak(子どもたち)、buku-buku(本々)、sekolah-sekolah(学校学校)
と自由自在である。
形容詞も複数を表すため(形容する名詞が複数であることを表すため)に畳語にする。
Mobil di jalan-jalan di Jakarta bagus-bagus.
(ジャカルタの道々にある車は良い良い)
というふうに。
(続く)
2008年10月9日木曜日
ケチャ



初めて私の人生にバリという島の名前が登場したのはケチャがきっかけだった。
私が大きな影響を受けたバンド、YMOの中期のアルバム“Technodelic”の中に、”Neue Tanz”という、ケチャがフィーチャーされた曲があったのだ。このアルバムは1981年リリースだから、私が聴いたのは1982~3年頃だったろうと思う。
その、人をトランス状態に誘い込むような摩訶不思議な合唱が「ケチャ」というもので、「バリ」という南洋の島のものだということは、エキゾチックな秘境のイメージとなって私の頭に刻み込まれた。
それから、キングレコードのワールドミュージックシリーズの「ケチャ」を買って聴いていたりしたのだが、ようやくその「南洋の秘境」で実際にケチャを目にできたのは2000年になってからである。
さて、手元の資料によると、ケチャというのはもともとサンヒャンという集団催眠によると宗教儀礼で、少女がトランス状態で踊るときに伴奏として行われていた男声合唱が原形だという。1930年代にバリに住んだ画家ウォルター・シュピースの提案で、「ラーマーヤナ物語」を採り入れ、舞踏劇に創作されたものが今のケチャであるということだ。
芸能の中心地であるウブドでは、毎晩5つ以上の芸能プログラムが行われており、ケチャも毎晩どこかで行われている。観光向けと侮るなかれ。神々に奉納するものとしての芸能が、神々と生きる人々の暮らしの中に分かちがたくあることを、感じることができるから。
ケチャは村毎にグループがあって、村落共同体のひとつの参加項目であるようだ。私の住む村のケチャの公演を観に行ったところ、その村のほとんどの成人男性が協力、参加しており、収益金は村の寺院の修理や再建、儀式などへの奉納金として使用される、との説明があった。
確かに、私が会場のお寺に向かう道々、衣装を着けて家から会場に向かう村の男性たちを見かけた。公演が始まり車座になって座る男性たちを見ると、白髪のおじいさんから青年まで、老若入り乱れている。そしてその姿は一様にりりしい。
昼間はトランスポート、トランスポートとうるさいおじさんたちもその中にいるのだろう。これからはちょっと見直しそうだ。
それにしても、1982〜3年には「南洋の秘境の摩訶不思議な芸能」だったものに、2008年の今、目と鼻の先で触れることができる。つくづく感無量である。
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