2009年3月31日火曜日

インターネット大騒動 その1:携帯電話会社との契約

ようやく入手したSIMカード

ようやく決着した。

この1週間、携帯電話経由でインターネットに接続するために東奔西走していたのである。最後は事態が紛糾し、私のストレスレベルもピークに達したが、ようやく一件落着である。

事の起こりは隣人の引っ越しであった。私の下宿先は隣人のインターネット環境をお金を払って共有させてもらっていたのだが、その隣人が突然引っ越してしまったことで、我が家のインターネット環境がなくなってしまったのだ。

遠隔で仕事をしている身にはインターネット環境は必須である。これは何とかしなければ、と以前友だちに聞いた、携帯電話経由でインターネットに接続する方法を試してみることにしたのだった。

ところがこれが一筋縄ではいかなかった。まず情報を収集する段階で、言葉の壁が厚く立ちはだかった。私のインドネシア語はそんな複雑な話ができるレベルではなく、携帯電話会社の人の英語もそんなレベルではない。ウェブサイトを見ても、すべてインドネシア語である上に、その辺りの情報が見当たらない。更に、人によって言うことが違う、何がほんとうか分からない、というバリの典型的な問題もあった。

それでもどうにか基本的な情報を入手し、契約することになった。ところがウブドでは契約できず、クタに行かなければいけないという。クタは遠すぎるので、何とかならないかとごねてみると、隣のギヤニャールなら何とかしてあげるというので、早速翌日ギヤニャールに行くことになった。

翌日、必要書類を揃えてギヤニャールに行くと、私のクレジットカードが彼らにとって見慣れない日本発行のものだというところで一悶着起きる。クレジットカードというのは国際的に通用するもので、私は現にいろんな国で使ってきたけど何も問題はなかった、といくら力説しても、今まで扱ったことがないから分からない、と言われ、結局スラバヤのチームが確認して、後日電話連絡をよこすということになり、取りあえず契約手続は完了した。

三日後、スラバヤチームから、私のSIMカードが翌日アクティブになる、という連絡が入った。今度はモデムの入手である。早速電子機器店に行き、その携帯電話会社のSIMカードが使えるモデムを注文したいというと、先日問い合わせたときは3,000円くらいと言っていたのに、何と1万円以上するというではないか。しかしここまで来たらもう引き返せない。仕方なく注文した。

インターネット大騒動 その2:モデムとコンピュータの設定

非常に高価なモデム

二日後、アクティブになっている「はず」のSIMカードとコンピュータを持って、モデムを受け取りに電子機器店へ行く。店の人は自分で設定できるのか、といぶかしんでいたが、携帯電話会社の社員Aは「クタのカウンターに行って設定をしなければならない」と言い、社員Bは「SIMカードとモデムを入手したら、USBで繋げばすぐにインターネットに接続できる。設定なんて必要ない」と言っていたので、まず繋いでみてだめだったら、クタに行くしかないだろう、と思っていた。電子機器店の店頭でモデムのドライバをコンピュータにインストールし、モデムにSIMカードをセットして、USBで繋いでみたが、接続できない。店の人がモデムの取り寄せ元である知人に問い合わせてくれ、色々やってみたのだがうまくいかない。結局午後3時までにその知人のいるデンパサールまで来るなら、設定を手伝ってやってもいいというので、急遽デンパサールへ行くことになった。

デンパサールには行ったことがない。交通量が多くて怖いし、一方通行が多くて道が複雑なのだ。だが背に腹は替えられない。午後3時までに所定の場所に行かなければならない。まるで身代金の受け取りのようである。私はお昼を食べる時間もなく、デンパサールへ向かった。

どうにか時間内に待ち合わせの場所に着き、その知人が2時間近くすったもんだした挙げ句、どうにか接続できるようになった。このプロセスを経てようやく分かったのだが、(1) SIMカードは、携帯電話会社がアクティブにした後、ユーザ側でアクティブにする必要があり(そんなことは携帯電話会社の人は教えてくれなかった)、(2) 更にインターネットを使うには”GPRS”というものをアクティブにするよう携帯電話会社に依頼するがあり(そんなことも携帯電話会社の人は教えてくれなかった)、(3) 更にコンピュータ側でモデムの設定をするには特定のパラメータを入力する必要があった(こんな重要なことも携帯電話会社の人は教えてくれなかった)のである。「設定は必要ない」なんて言ったのは一体どこの誰!?(答:携帯電話会社の社員)

ああ、これでようやく使えるようになった、と胸を撫で下ろしたのも束の間、本当に大変だったのはこの後だったのである。

インターネット大騒動 その3:法外な料金に仰天

デンパサールへ

家に帰って接続をチェックしてみると一度は繋がったのだが、数分後には繋がらなくなってしまった。翌日はニュピだったので、そのためにシステムがダウンしているのかと思い、ニュピが明けるのを待って再度試してみたが、やっぱり繋がらない。コールセンターに問い合わせてみると、私の「残額」が足りないために、インターネットに接続できない、と言うではないか。この契約は後払いのはずなので、「残額」の意味が分からない。いくら説明を求めても回答が得られず、向こうが言うには、私はすでに約1,200円を使っていて、残りが20円しかない、インターネットを使うには最低50円の残額が必要だ、というのだ。この「残額」の概念が相変わらず理解できないが、私がすでに1,200円使ったというのに仰天した。私がしたことは接続のチェックだけで、接続時間は全部合わせても5分にも満たない。5分で1,200円もするならインターネットなんて誰も使えないではないか。いくらそんなはずはない、と言っても、担当者は聞く耳を持たず、電話は途中で切れてしまった。

すぐにウブドのカウンターに行って聞いてみると、そこでもコールセンターに問い合わせ、同じ回答を返すばかりである。5分で1,200円もするんですか、そんなに高いんですか、と聞いても、そうだという。まるで狐につままれたようである。どう考えてもおかしいが、そうだと言われればのむしかない。そんなに高いのなら使えない、契約を解除するしかない、1万円以上もするモデムを買ったのに…と途方に暮れて帰ってきた。

ところが念のため、同じ携帯電話会社の同じプランを使っている友だちに聞いてみると、5分で1,200円なんてあり得ないよ、きっと向こうのシステムの不具合だよ、という答が返ってきた。私たちのプランは月に250MBまで定額990円というものなのだが、彼はメールの送受信も(添付ファイル含め)ウェブサイトのブラウジングも普通にしているけど、定額を超えることはほとんどない、というのだ。それを聞いて私はやっぱりこれはおかしいと思い直し、再びコールセンターに問い合わせることにした。

ところが、である。このコールセンターの対応がまるで悪夢であった。とにかくこちらの説明を最後まで聞かない。どんなに説明しても、「残額が足りないから使えない」の一点張り。契約状況の確認を求めても、答がない。終いには途中で電話が切れる。かけ直すと違う人が出て、さっきの人に代わってほしいと言っても、それはできないという。仕方なく一から説明し直していると、また電話が切れる。この繰り返しで、私は5人くらいと不毛で不愉快極まりない会話をした挙げ句、コールセンターで解決することは諦めることにした。

残る手段は、クタのカウンターに行くことであった。何度も言うが、クタは遠い。そして交通量が多くて怖い。それでももう他に手がない。それでだめならもう諦めて、即刻契約を解除し、モデムは売るか、他の携帯電話会社を使おうと決心した。

インターネット大騒動 その4:解決

ついにクタへ

翌朝、意を決してクタに出向いた。そして、何と問題は解決したのである。

有能で思慮のあるカウンターの女の人がてきぱきと調べてくれたことによると、何と私は、その「月250MBまで定額990円」のプランに入っていなかったので、その定額パッケージ外の値段が適用されていたというのだ。衝撃である。向こうの言い分では私がリクエストしなかった、という。唖然とした。契約の時に誤解があったようで、次の月からはそのパッケージにしますので、と先方は言うが、納得いかない。他にも請求の締めの日付について私が契約のときに受けた説明が間違っていたことが発覚し、そのために私は2週間分も損をすることになった。が、様々な誤解は私のインドネシア語力不足に負うところも多いし、ここがインドネシアである以上、先方の英語力不足は責められない。結局彼女の裁量と双方の譲歩により、問題は解決した。私には彼女が女神様に見えた。

この話を、同じプランを使っていて、色々相談に乗ってもらったオーストラリア人のSさんにすると、「典型的なバリの問題って感じだね。バリ人って愛すべき人たちなんだけど、社員教育がされてなくて、それなのになぜだかみんな自分は正しいと信じてるんだよね!」という的を射たコメントが返ってきた。

私も今回の騒動で大きな教訓を得た。この国では、楽をして電話で解決しようと思わないこと。とにかく一番信頼できそうなところに直接出向くのが、遠くても結局は一番の近道なのだ。つまり最初からクタに行っていれば、ほとんどの問題は回避できたのである。

それでも、ずっと怖くて行けなかったデンパサールとクタに初めて行けたのは収穫だった。問題は人を成長させる。転んでもただでは起きないぞ、と肝に銘じている。

2009年3月29日日曜日

A House In Bali

コリン・マックフィー住居跡からの眺め

1930年代のバリに心惹かれる、という話は事ある毎に触れてきた。二つの大戦にはさまれたこの時代は、ドイツ/ロシア人画家/音楽家ウォルター・シュピース初め、メキシコ人画家コバルビアス、オランダ人画家ルドルフ・ボネ、人類学者ベイトソン・ミード夫妻など、この島に魅了された西洋人芸術家、人類学者たちが島を訪れ、長期滞在し、この島の芸能に影響を受けるとともに、影響を与えた時代であり、それぞれがそれぞれの分野で様々な著作を残している。

そんな中で、ガムランの音に魅せられてバリ島にやってきたカナダ人音楽家コリン・マックフィーの著書「A House In Bali(邦題:熱帯の旅人〜バリ島音楽紀行)」(大竹昭子訳 河出書房新社刊)は、私の興味の直球ど真ん中の内容であり、大変興奮した。いつまでも読み終わりたくなくて、結局2度読み返しただけでは飽きたらず、コピーをとって、今も何度も読み返している。

コリン・マックフィーは駆け出しの作曲家だったが、あるとき偶然レコードで耳にしたガムランの音に魅了され、はるばるバリ島までやって来る。そしてついには当時はド田舎だったウブド近郊のサヤン村に家を建て(A House In Bali)、通算で5年間滞在する。あちらの村に古い楽器が眠っているらしいと聞けばキャンプをしてでも探しに行き、こちらに古い曲を知っている人がいると聞けば教えを請いに行き、様々な音楽家や舞踏家や芸能のパトロンである王たちと親交を結び、解散した楽団を復活させたり、自分の村に新しい楽団を創設したり、舞踏家を育てたりしてしまう。この本にはそんなエキサイティングな日々が、音楽家の鋭い耳と感性で、実に生き生きと、詩情とユーモア溢れる筆致で綴られている。

この人の素晴らしいところは、この地域の通商用語であり比較的習得が容易なマレー語だけでなく、マレー語が通じないサヤン村に住んだために、複雑な敬語体系があって習得が難しいと言われるバリ語まで学んでしまったところで、その彼の口から、地元の人々の会話が生き生きと描かれ、様々な曲の題名や劇の筋を解き明かしてくれるのだから、バリ文化の恰好の案内書でもある。

そのとき採集したバリ島中の音楽を、彼はその後20年余をかけて「Music in Bali」という「電話帳ほどの厚みがある」という大著にまとめ、後年はUCLAの音楽学科および民族音楽科の教授に迎えられたというが、こちらが学術書であるのに対して、本書の方は、まるで映画を観るように、彼の目を通して1930年代のバリが見えるような気がする。

数多い印象的なフレーズの中で、バリの音楽の本質を言い表していると思われる一節がある。少し長いが引用したい。

「 こうして毎晩様々な曲を聴き続けるうちに、バリの音楽の法則や形式や構造が、ようやくつかめてきた。私は村人とおしゃべりしたり、採譜したり、遠出していろんな音楽に出会ったりしながら、謎を解いてきたこれまでの道のりを思い返した。今やするべきことはすべてし尽くしたようだった。パズルのコマは収まるところに収まった。ミステリーは解決された。
 しかし本当にそうだろうか、という思いも一方にはあった。確かに私はバリの音楽について新たな原理と法則を手にしたようだった。そのみずみずしさや精巧さに私は興奮し、これまで集めた資料を元に、私なりにバリの音楽を分析して本に著したいと考えた。それを思うと思わず胸が高鳴った。だがルバの奏でる繊細な太鼓の響きや、新たな創作意欲を感じさせるロットリングのまばゆい旋律を聴いていると、バリ音楽の究極的な本質や特徴は、とらえようにもとらえきれないもののような気がしてくるのだった。」

だからこそ、今もバリの音楽は私を含め、多くの人々を魅了せずにはおかないのだと思う。

大竹昭子さんの翻訳がまた素晴らしい。バリ島の文化に精通し、その方面の著書もあり、ご自身が素晴らしい書き手でもある訳者ならではの、深い理解と愛に基づく名訳である。

さて、彼が暮らし、当時はド田舎だったサヤンは、今や高級リゾートが立ち並ぶ一帯となっている。本書を頼りに彼の住居跡を探してみた。当たりをつけて、あるリゾートに聞いてみると、何と「ここですよ」と言う。今は改築されてリゾートの一部となっているが、お願いしてその家を見せてもらった。本書にある通り、「墓地の横のそそりたった崖の上」にあり、「建物は崖のきわに建っており、急勾配の屋根の切り窓から、険しい渓谷をうねっていく川の様子が、まるで飛行機から眺めるように見渡せた」。この景色は80年近く経った今も余り変わっていないのではないかと思われた。この場所で、この本に書かれている魅力的な光景の数々が繰り広げられたのだと思うと感動が込み上げ、私は心の中で、そこにいるような気がするコリン・マックフィーさんの魂に話しかけた。

2009年3月28日土曜日

クニンガン


10日間のガルンガンの終わりを告げるクニンガンの日である。この日はみんな正装して、お供えを持ってお祈りにいくようだ。街中正装した人々で華やかである。

ガルンガンのお休みが終わると、月曜日からは学校なども平常に戻るらしい。祭事に明け暮れるバリの人々である。

2009年3月26日木曜日

ニュピ体験記

件のニュピがやって来た。ニュピというのはバリで使われている3つの暦のうちのひとつ、サコ暦の新年に当たり、悪霊が徘徊する日なので一切外出が禁じられ、家で静かに過ごさなくてはならない。本来は火の使用も禁じられ、食事も含めてあらゆる活動を停止し、瞑想して過ごす一日らしいが、最近はその部分は緩くなっているらしい。それでも、外出禁止なので当然のことながら街の機能は全面的にストップする。人々は食糧の買いだめにスーパーに走る。

ニュピ前日は、村の辻やそこここにブト・カロ(邪鬼)へのお供え物が置かれ、夕方から鳴り物をガンガン叩いてブト・カロを退散させる。本来ならばオゴ・オゴと呼ばれるブト・カロを模した張り子をもって練り歩く、という行事があるそうなので楽しみにしていたのに、今回は4月に控えた選挙への治安上の配慮から、オゴ・オゴはないのだそうだ。まったく残念である。

さて、当日は朝から快晴であった。静寂の中で、私は誰とも喋らず、次から次へと本を読んで過ごした。食べ物の買い置きをし損なったので、家にあるものを質素に食べた。日が沈んだあと、真っ暗な部屋でぼーっとしていたら、見回りに来た管理人さんご一家が心配して、カーテンを閉めて灯りをつけなさい、と教えてくれたので、言われたとおりにしてまた本を読んだ。街灯のない暗月の次の夜は本当に真っ暗である。そのかわり星がよく見えた。こんな「謹慎」のような沈黙の一日というのも、たまにはいいものですね。

さて、翌朝はさすがにうずうずして、朝一のヨガのクラスに出るべくいさんで6時半頃家を出た。ところが、ヨガのクラスのチケットを買うために、銀行のATMでお金をおろそうと思ったら、どこも動いていない。考えてみれば当然なのだが、ニュピのためにATMも全部ストップしていたらしい。結局朝8時くらいになって、ようやく銀行のエンジニアの人がATMを再開しに来たところをつかまえて、お金をおろし、次のヨガのクラスに参加した。みなさん私と同じく活動したくてうずうずしていたと見えて、クラスは大盛況だった。

2009年3月18日水曜日

ガルンガン

ペンジョール

ガルンガンがやって来た。バリは複雑かつ精緻な暦のシステムを持っていて、西洋暦の他にウク暦というのとサコ暦というのがあり、すべて平行して使用されて いる。そしてガルンガンというのは210日ごとにめぐってくるウク暦の正月だそうだ。ガルンガンの10日後がクニンガンである。私が今回バリにやって来た のは前回のクニンガンの翌日だったから、ウク暦の1サイクルを私はバリで過ごしたことになる。

ペンジョールの下にはポストのようなお供えの台

さてこのガルンガンとクニンガン、日本のお 正月とお盆を合わせたような行事である。まずペンジョールという竹で出来た「のぼり」のようなものが各家の前に立てられる。これは門松によく似ている。車 のナンバープレートのところにもお飾りが置かれるが、これなんかもしめ縄によく似ている。店も学校も休みになって街中静けさに包まれ、午後からは獅子舞 そっくりのバロンが門付けをして街を練り歩く。どうです?日本のお正月によく似ているでしょう。

門付けをしながら練り歩くバロン

さらにこの行事は、ご先祖様の霊をあの世から迎え入れて期間中おもてなしをして過ごし、最後はあの世にお送りするものであるという。まったくお盆そのものではないですか。

子どもたちによるバロンも数多く出回る

さ て、今 回は西洋暦で言うと3月18日がガルンガン。3月28日がクニンガン。さらにその間の3月26日にニュピという日が入る。このニュピというのはサコ暦の新 年に当たるというからまたややこしい。ニュピは悪霊が跋扈する日なので、外出が一切禁じられ、家の中で静かに過ごさなくてはならない。本来は料理や食事も 含め一切の活動が禁止され、瞑想して過ごす日であるという。悪霊にこの村に人間はいない、と思わせてやり過ごす、ということらしい。もちろん観光客も外国 人も例外ではない。さてどうなりますことやら。

2009年3月13日金曜日

サヌールへ


ペーパードライバーの私がモーターバイクでの遠出の練習を重ね、先日はとうとう東海岸アメッドへ到達するという偉業まで果たした。が、未だ挑戦していないエリアがあった。それは南部である。首都デンパサールや観光地クタ、サヌールなどを擁する南部は、交通量が多くて怖いのである。

そこでまず、南部の中でも最も行きやすそうなサヌールから挑戦してみようと思っていたら、絶好の海日和がやってきたので、決行することにした。

ドライバーのJに道を教わり、「簡単、簡単」の声に励まされて出発する。途中までは田舎道をトコトコ走る感じで快調だった。しかし大きなバイパスに出てから雲行きが怪しくなる。車やバイクが入り乱れて何車線にもなって走る。怖い。しかも一方通行である。帰りは来た道を戻ればいい、という方程式が通用しないではないか。それでも、その交通量の激しいバイパスをウパチャラの行列がゆうゆうと通り過ぎていったりするところは、さすがバリである。そしてどうにかサヌールへ到着した。

サヌールは8年前に1泊したきりで、記憶もおぼろげである。かつてもてはやされて今はさびれた観光地、というイメージが強かったが、静かで物売りもしつこくなく、なかなかどうして悪くない。涼しい並木道を走るのは気持ちいいし、おしゃれなカフェでちらちら揺れる木漏れ日を眺めながらボーッと過ごすのも楽しい。浜辺を散歩して、海風に吹かれ涼んでいたら、フローレスの出身でバリで働いているという、ポルトガル系の名前を持つ青年に話しかけられた。日本へ3度行ったことがあるという。なかなか達者な英語を話す。

帰り道はやはり大迷いに迷ったが、まあ今日中に帰り着ければよしとしようと開き直った。途中の村ではオダランらしきウパチャラに遭遇し、神社からあのきらびやかなガムランの調べが聞こえてきてうっとりする。これだからバリはやめられない。結局30分のところを1時間強で帰り着いたのだから、まあまあ上出来である。

後でJに「サヌールへの道は簡単じゃなかったよ」と言ったら、「それは道を間違ったんだよ」と言われたが、一体どこをどう間違えたのか、未だによく分からないなあ。

2009年3月11日水曜日

再会


昨年8月、ジョグジャカルタのインドネシア語学校のホームステイ先で知り合ったMKちゃんが、突然、大学の春休みを利用して日本からご学友の皆さんとバリに遊びに来た。

MKちゃんと言えば、偶然にも私の母校でインドネシア語を専攻する学生さんであり、インドネシア語が「おはよう」と「ありがとう」しか分からずホストマザーとコミュニケーション不能で部屋で寝たふりをするしかなかった私を救い出してくれた恩人なのであった。またジョグジャの母とも言うべきIさんの下で働く、愛すべき生粋のジョグジャ人ドライバーNさんのファンクラブ会長でもある。その天然ぶりで知られ、数々の名言を残してもいる。さて半年振りの再会やいかに。

バリ名物バビグリン(豚の丸焼き)屋で…
MKちゃん「アユン川のラフティングを申し込もうと思ったんですけど、私3メートルしか泳げないので、お母さんに猛反対されてあきらめました」
私「3メートル??」
MKちゃん「はい。私これでもスイミングスクールに3年通ったんです。それで3メートル。1年に1メートルですね。残念です」
私「………」

天然ぶりは健在であった。

2009年3月8日日曜日

クタビーチホテルへようこそ


仕事が閑なのをいいことに、読書三昧の日々を送っている。ほぼ1日1冊の割合で読んでいるが、最近読んだ中では「クタビーチホテルへようこそ」(古谷野洋子著/新風舎)という小品が個人的に良かった。

「クタビーチホテル」という伝説のホテルに興味を持った著者が、このホテルを巡る二冊の本を基に関係者へのインタビューを進めるうち、そこに繰り広げられた人間模様が明らかになっていく、というもので、その時代背景がまさに私が憧憬する1930年代のバリなのである。

実は「クタビーチホテル」にはかねてから興味を持っていた。半年ほど前、ネカ美術館の写真展示室で、1930年代のバリの芸能を写した素晴らしい一連のモノクローム写真を見た。そこには伝説のクビャールの踊り手マリオが子どもに稽古をつける姿や、ケチャの発展に大きく貢献したという偉大なるバリスの踊り手リンバックのまさに神がかった姿が映し出されていて、私は随分興奮したものである。その写真の出所を見ると、”Our Hotel In Bali” (Louise Koke著)とあった。調べてみると、若いアメリカ人夫妻(コーク夫妻)が資金もホテル経営の経験も知識もないままにいかにして1930年代にクタ初のホテル「クタビーチホテル」を開いたかという物語であるという。いつか読んでみたいものだと思っているうちに、先にこの「クタビーチホテルへようこそ」に巡り会った。この本が基にしている二冊の本のうち一冊がその”Our Hotel In Bali”であり、もう一冊はK’tut Tantriという人が書いた”Revolt In Paradise”という本である。

この本によると、「クタビーチホテル」は”Our Hotel In Bali”の著者コーク夫妻と”Revolt In Paradise”の著者クトゥット・タントリのパートナーシップで始まったが、後に両者の関係は決裂し、分裂して、それぞれがそれぞれの「クタビーチホテル」を目と鼻の先で運営するに至ったらしい。つまり、「クタビーチホテル」は2軒あったという。

このクトゥット・タントリなる人物がまた興味深い。実はこの人、アメリカ人女性である。アメリカで観たバリの映画に心引かれ、全財産を持ってバリにやって来たが、当時のバリを支配していたオランダ人官吏の干渉を嫌い、バンリの王家と巡り会ってラジャ(王)から家族同然に受け入れられ、この名前を拝命した、という。本名はヴァンニーン・ウォーカー、又の名をミス・マン、ミュリエル・ピアソンといい、日本支配時には抗日レジスタンス運動に参画し、インドネシア独立戦争時にはインドネシアのために闘ってスラバヤ・スーと呼ばれた、という。何という破天荒な女性か。

コーク夫妻とクトゥット・タントリのそれぞれの著書の中で「クタビーチホテル」が言及されるとき、お互いの元パートナーの話はまったく無視されていて、「クタビーチホテル」が2軒あったことなどももちろん言及されていないようだ。ただお互いと思われる人物はそれぞれ名を伏せて登場していて、それによるとクトゥット・タントリはコーク夫妻のビジネスを裏で大分妨害したらしい。燃えるような赤毛からミス・マン(「マン」はバリ語で猫のこと)と呼ばれた彼女の、気性の激しさが伺えるエピソードである。

著者はこの2冊の本に加えて、”Bali, A Paradise Created” (Adrian Vikers著)、”A House In Bali” (Colin McPhee著)などの文献にあたり、更に関係者たちにインタビューを試みるが、たまたま出会った老人が「クタビーチホテル」の元コックだったり、たまたまコピー屋で会った人がクトゥット・タントリの晩年を知っていたり、とバリらしい「偶然」に導かれていく。この過程もまた面白い。

この「クタビーチホテル」を巡るエピソードを通して、1930年代のバリという時代が見えてくる。この地に魅かれて移り住んだ西洋人芸術家たち、オランダ支配、バリの王族、戦争の影、日本軍の上陸…。その後第二次大戦に突入し、コーク夫妻とクトゥット・タントリそれぞれの夢の結晶「クタビーチホテル」は影も形もなく破壊された。西洋人たちは本国へ逃れたり、日本軍の収容所に入れられたり、そのままバリに残ったりとそれぞれの末路を辿った。「クタビーチホテル」はまさに1930年代のバリを象徴する存在だったのだと思えてならない。

クトゥット・タントリがその後どうなったのか明らかでないが、彼女に関するエピソードの中で私がとても心引かれたことばがある。彼女にバリ名を与えたラジャの娘にあたる老女の証言である。

「ミス・マンはラジャに恋してしまったの。ラジャが行く所ならどこにでも付いていった」

「ミス・マンはインドネシアのムルデカ(独立)のために闘った。ミス・マンはインドネシアに恋していたからね。ラジャとインドネシアに」

日本軍の拷問にも耐え抜いて、インドネシアの独立に尽くした、破天荒で気性の激しい彼女の、強さの源が見えた気がするからだ。

2009年3月5日木曜日

Eat, Pray, Love


二人の友だち、オランダ人のRさんとアメリカ人のLさん(いずれも女性)に別々のタイミングで同じ本を薦められた。ベストセラーになっている”Eat, Pray, Love”というその本を、海辺での休暇中に一気に読んだ。

ライターを職業とする著者の女性が私的な体験を描いたもので、人も羨むようなキャリアと結婚生活を持つ彼女が、30歳を目前に「そろそろ子どもを持って家庭に納まる」という夫から期待されている役割をどうしても受け入れられずに悩んだ挙げ句、家を出る。前後してソウルメイトのような若い恋人ができるが、強く惹かれ合いながらも、二人の関係はうまくいかない。離婚問題の泥沼化と恋人との問題で精神的に参った彼女は、仕事を辞め、1年間の旅に出ることを決意する。
最初の4ヶ月はイタリア、ローマで、実用性はないけれどもその音が好きだというだけの理由でイタリア語を学び、イタリアの食を堪能する(Eat)。
次の4ヶ月はインドのアシュラムで、瞑想とヨガの禁欲的な日々を送る(Pray)。
最後の4ヶ月はバリ島ウブドのバリアン(メディスンマン)のところに通って、英語を教えながら、彼のアシスタントのようなことをする。そのうちブラジル人の男性と知り合って恋に落ち、現在はアメリカとブラジル半々で暮らしている(Love)、という話である。

結論から言うと、私は勧めてくれた友だちほど刺激を受けなかったのだけれども、驚いたのは自分に関係のあることが余りに多かったことである。

その1. 実は私の大学の専攻はイタリア語である。それも音が好きだというそれだけの理由で選んだ。
その2. この本を読む直前まで、ヨガ教師認定取得コースの通訳の仕事に入っており、ヨガとか瞑想という話題はとても身近なものだった。
その3. バリ島ウブドの部分は、まさに今の自分の生活圏である。
その4. ブラジルは私が大学の卒業式の翌日から1年間を過ごした愛着のある国であり、第二の故郷と慕っている場所である。

そういう意味では、このタイミングでこの本を読んだことに不思議なご縁は感じるのだが、なぜ私にとってそこまで刺激的ではなかったのか。
勧めてくれた友だちほど英語の言葉の妙を味わえないからか。
離婚や失恋の心の痛手は当人にとってみたら地獄の苦しみだけれど、世界で多くの人たちが苦しんでいる戦争や飢餓や天災や犯罪や病気というもっと理不尽な問題から見ればちっぽけなことだと思ってしまうからか。
1年間の旅の体験を書く、という出版社との契約付きの旅の仕方にマーケティングの匂いを感じてしまうからか。
著者が親友になるバリ伝統医療のヒーラーの女性が、実際会ってみたら感じが悪くて失礼だったからか。
多分そのどれも理由の一部ではあるのだが、最もしっくりする理由が見つかった。
つまり、旅文学としては沢木耕太郎の「深夜特急」が面白すぎるのである。

まあでもこれはあくまで私の好みの問題で、一人の女性がもがいてもがいて出口を見つけていく過程を正直に見つめた記録としては、人の心に響くものがあるのだろう。私にとっては、好きなことは実用性など考えずやっちゃっえ、という彼女の痛快な決断の部分の方が刺激になったけれども。

そんなわけで、興味のある方はご一読ください。