2011年8月1日月曜日

サヤン・テラス

「ちょっとやってみてごらんなさい」

と言うAさんのことばにのせられ、はじめて木琴のようなバチを握った。

ティンクリックは木琴のような竹製の楽器で、5音階(チューニングは平均律ではない)、2オクターブからなる。

片手で木槌を握り、叩いた側からもう片方の手でミュートしていく青銅製のガンサとは違って、両手にバチを握って両手で叩く。

音色も、金粉をまき散らすような甲高いガンサとは違って、やわらかい。

田んぼを吹き抜けていく風がカラコロと鳴らすウィンドチャイムのような音。

Aさんの後について、スケール練習のような単純なメロディーをオクターブで奏でる。

ミとファの間に黒鍵がないことによって1オクターブが視覚的に認識しやすいピアノと違って、何の目印もないティンクリックは、どの鍵盤とどの鍵盤が1オクターブの対応関係になっているのかが視覚的に分かりづらく、時々道を踏み外して不協和音を奏でてしまう。

だんだん慣れて道を踏み外さなくなると、Aさんが複雑な合いの手を入れてきて、美しく絡み合う。

竹の振動が体に響いてきて、叩いている本人がいちばん心地よい。


日が沈む前に、Aさんのお宅をお暇し、Sさんとサヤンへ向かう。

1930年代にこの地に家を建て、通算で5年ほど滞在したカナダ人音楽家コリン・マックフィーの住居跡に案内するためだ。

ガムランの響きに惹かれてバリを訪れ、島中を音楽探訪して回ったコリン・マックフィーは、”A House In Bali”(日本語版タイトル「熱帯の旅人」)という著作に、その追憶をユーモアと情緒あふれる筆致で生き生きと描いている。

この本を愛して止まない私は、とうとう彼の住居跡を探し当ててしまった。


サヤンテラスと呼ばれるその土地は高台の崖っぷちにあって、椰子の木の茂る谷を眼下に見下ろせる。

コリン・マックフィーの住居跡は今はホテルになっていて、母屋だった部分は客室の一部となっている。

いつか泊まって、”A House In Bali”を読み直してみたいなあ。


Sさんが見たこの日のウブド:

http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627346258639/

2011年7月31日日曜日

チャロナラン

プリアタン村でチャロナランが行われた。

チャロナランというのは悪魔祓いの劇だが、プリアタン村ではその昔これを行わなかったところ、疫病が流行したくさんの人が亡くなったので、必ずやるようになったのだと、以前プリアタン村の人に聞いた。

夜が更けてから行われ、終わるのは真夜中。空が白むまで続くこともある。

いつもは途中で眠くなって帰ってしまう私なのだが、せっかくSさんも来ていることだし、今回はがんばってフル鑑賞することにした。

夕方6時くらいにAさんのお宅からお祈りに行き、そのあといったんAさんの家に戻ってご飯をいただいて、夜9時くらいから会場へ。


チャロナラン劇の基本ラインは、バロン(獅子舞の獅子のようなルックスの聖なる存在)とランダ(魔女)との闘いだが、ストーリーや構成、娯楽性や宗教性の度合いは村によって全く異なり、非常に多くのバリエーションがあるようだ。


手元の資料に載っていたチャロナランの物語をご紹介すると—


舞台は11世紀、ジャワのエルランガ王の治世。

エルランガ王の母はジャワの王女マヘンドラダッタ、父はバリの統治者ダルモダヤナであった。

マヘンドラダッタが魔術を使ったため、ダルモダヤナはマヘンドラダッタを森に追放し、別の女性と再婚した。

ダルモダヤナが亡くなったとき、マヘンドラダッタは未亡人=ランダとなった。

マヘンドラダッタは父の再婚を止めなかった息子のエルランガを恨んでいたため、弟子を集めて、エルランガが治めていた東ジャワ王国を破壊して回った。

マヘンドラダッタにはラトナ・ムンガリという美しい娘がいたが、魔女の娘であるが故に結婚相手が見つからなかった。

ラトナはカーストが高いため、カーストの高い男性と結婚しなければならない。

娘の結婚相手が見つからないこともマヘンドラダッタを苛立たせ、ランダとなったマヘンドラダッタは、弟子とともに東ジャワ王国を暴れ回り、疫病を流行らせ、王国に破壊と死をもたらした。

ランダは魔力を維持するために、赤ん坊の死体を必要としたため、娘のラトナや弟子たちを墓地に遣わし、赤ん坊の死体を漁って来させた。

エルランガはランダを破滅させようとしたが、ランダの魔力が強すぎてかなわなかったため、司祭のエンプ・プラダに助けを求めた。

エンプ・プラダはその息子または助手(どちらかは不明)のバフラを送り、ラトナと結婚させた。

二人は幸せに暮らした。

しかしバフラの本当の使命は、義理の母ランダの秘密を探り出すことだった。

バフラはついにランダの魔術書を盗みだし、それをエンプ・プラダに届けた。

エンプ・プラダはランダの魔術を使って犠牲者たちを生き返らせ、自らランダと対決した。

エンプ・プラダはまず黒魔術返しによってランダを殺し、一度生き返らせて、ランダが人間の姿をしているときに再び殺した。


以上がフルストーリーだが、よくチャロナラン劇で行われるバリエーションは—


ランダは娘のラルンに、墓地で赤ん坊の死体を漁って来るよう命令する。

ランダは祈祷のための供物が必要で、供物には赤ん坊の死体が必要だった。

ラルンは墓地に行って赤ん坊の死体(赤い布でくるまれている)を見つけ、それを生きた赤ん坊のようにあやしている。

木の陰からこれを見ていたバロンが進み出て、赤ん坊を渡すように言う。

もみあった末、バロンが赤ん坊を奪う。

ラルンは泣きながら母親ランダの元に帰るが、ランダは「赤ん坊を取ってこいと言ったのに、敵を連れてきた」と激怒する。

ランダはラルンに、バロンとの闘いに勝つことができるよう、家に帰って全ての社で祈るよう命令する。

ランダは大声を上げ、持てる魔力を結集する。

その声を聞きつけたバロンは、子分たちにランダを殺すよう命令する。

しかしランダは魔法の布によって、バロンの子分たちを打ち負かす。


ランダはバロンの子分たちを打ち負かすが、バロンそのものに勝利したわけではない。

バロン(善を象徴する)とランダ(悪を象徴する)の闘いに勝敗はない。

詰まるところチャロナラン劇の真髄は、ヒンドゥーバリ的な善と悪のバランスにあるのである。


(Bali: Sekala & Niskala Volume I: Essays on Religions, Ritual, and Art
by Fred B. Eiseman, JR.
より抜粋・翻訳)


さて、プリアタン村のチャロナランは、以上のようなチャロナランの物語の間に、喜劇がサンドイッチになっている。バロンの手下の男たちがランダをクリス(剣)で刺し殺そうとする場面では、ランダの魔力によって自らにクリスを突き立てる男たちが次々にトランス状態に入ってしまい、司祭が聖水を振りかけて正気に戻す。そうかと思えば、吉本新喜劇ばりのドタバタコメディが繰り広げられ、観客はドッカンドッカン受けている。一転して、ランダのもたらす厄災によって死んだ男が墓地に運ばれる(Aさんによれば、死体役をする人は強くないと本当に死んでしまうことがあるそうだ)という不気味な場面が繰り広げられ、その後にまたドタバタコメディ、とこんな具合なのである。


途中何度も雨に見舞われながら、無事にチャロナラン劇が終了すると、真夜中の2時を回っていた。

Sさんと別れて帰る頃、雨がザーッと降ってきた。


Sさんが見たこの日のウブド:

http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627455681074/

2011年7月30日土曜日

再会

Sさんが身を寄せているガムランの先生Aさんのお宅を訪ねた。

5年ぶりに会うSさんはちょっとふっくらしている。

ご本人曰く“震災太り”だとか。

初めてお会いするAさんはティルタ・サリのリーダーで、画家でもあり、物腰の柔らかい上品な方である。

心地よい風の吹き抜けるバレでしばらくお喋りしたあと、“震災太り”解消のため、夕方からのヨガのクラスにお誘いした。


後日談:

到着翌日だというのにSさんは早速早起きして、絵葉書か写真集にしたいような美しい写真を撮っていた。


Sさんが見たこの日のウブド:

http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627455679948/

2011年7月29日金曜日

Sさんがやって来た

シンガポールから帰ってきたこの日、日本からSさんがやってきた。

2006年にSさんの住む盛岡を、私が旅の途中で訪れて以来だから、5年ぶりの再会になる。


Sさんとは10年前、ここウブドで知り合った。

80年代に摩訶不思議なケチャの存在を知って以来、ずっと気になっていたここバリ島を、ようやく初めて訪れたときのことだ。

ある夜、ウブド近郊の小さな村にジョゲッ・ピンギタンという神聖な踊りを観に行くツアーに参加した。

神がかったような踊り子と、竹のガムランのやわらかな響きが素晴らしく、何か記録になるものがほしかったが、そのときカメラを持っていなかった。周りを見回してみると、大きな望遠レンズをつけた立派なカメラで写真を撮っている人がいる。公演が終わった後、おずおずと写真を売ってもらえないか聞いてみた。その人は東北のやわらかなアクセントで「売るだなんてとんでもない」と恐縮し、数日後、私の泊まっていた宿にわざわざ写真を届けてくださった。お金は受け取ってくれなかった。

それがSさんだった。


お話ししてみると、岩手県の中学校で美術を教えていて、バリの芸能に惹かれ、休みの度にバリを訪れているという。

Sさんはその後バリ好きが昂じて、教職についていた中学校でバリをテーマに特別授業を持ち、私財を投じてガムラン1セットを購入し、ウブドからガムランの先生と踊りの先生を招いて、中学生にガムランと踊りを仕込み、発表会をするという偉業まで成し遂げてしまった。

そして3年ほど前には、当時の生徒さんたちを連れてウブドを再訪されたが、当時、私はまだタイのチェンマイに住んでいたので、お会いすることができなかった。


現在は宮古市に赴任しておられる。

3月11日の震災では、Sさんご自身は無事だったものの、宮古市は津波で大きな被害を受けた。

お世話になったガムランの先生や踊りの先生に心配をかけたので、元気な顔を見せたいと、3年ぶりにやって来られたのである。


私のシンガポールからの到着が夜だったので、この日はお会いすることができなかったが、S さんはティルタ・サリ楽団の公演を観に行って、またたくさん美しい写真を撮っている。


Sさんが見たこの日のウブド:

http://www.flickr.com/photos/tm1sart/sets/72157627456126318/

2011年7月27日水曜日

児玉龍彦教授、気迫のスピーチ


シンガポールから帰ってみたら、ダーリンとカナダに移住したMhちゃんからメールが入っていて、これを見ろと言う。

7月27日、衆議院厚生労働委員会に参考人として呼ばれた、児玉龍彦・東大先端科学技術研究センター教授/東大アイソトープ総合センター長の気迫のスピーチ。

その後ネット上でもかなり話題になった。

「7万人の人が自宅を離れて彷徨っているときに、国会はいったい何をやっているのですか!」

児玉先生の具体的な提案が、その後ひとつでも採り上げられているのだろうか。

2011年7月22日金曜日

広河隆一さんのチェルノブイリレポート(1993/94年)

チェルノブイリ原発事故から7〜8年後の1993〜94年、櫻井よしこさんがキャスターを勤めていた日本テレビ「NNNきょうの出来事」で放映された「シリーズ チェルノブイリ」。

写真家の広河隆一さんによる現地レポート。


チェルノブイリ特集 第1回 潜入!最悪汚染ゾーン('93.5)


チェルノブイリ特集 第2回 子供に何が起きたか('93.5)


チェルノブイリ特集 第3回 原発汚染 死の生活('93.5)


チェルノブイリ特集 最終回 少女の体に放射能は 衝撃的レポート('94.7)


爆発的に増え始めた子どもの甲状腺ガン、小児白血病、奇形、流産・死産、亡くなっていく子どもたち…

5年後の1991年に広島の学者が率いるIAEA調査団が出した「放射線による健康被害はみとめられない」という恥知らずな安全宣言が、救援の手を遠ざけ、被害を拡大した。

山本太郎さん、福島を取材する


20110720
 山本太郎が見た“福島の現実” by PMG5


脱原発発言で事務所を辞めてフリーになり、活発に脱原発活動している俳優の山本太郎さんが、福島の現状を取材した。

高木学校の崎山比早子先生に放射線の子どもへの影響について聞いたり、

子どもの尿からセシウムが検出された親御さんたちに話を聞いたり、

福島市に設立された市民放射能測定所を取材したり、

子ども福島ネットワークの中手聖一さんにサテライト疎開構想について聞いたり、

北海道に疎開した福島県の人たちに話を聞いたり、

いい内容になっている。


福島市立の小中学校の給食は40%福島県産の食材を使用しており、放射能の測定もしていないという話には、改めて慄然とした。

福島県の農家の方々には申し訳ないが、福島県の土壌汚染レベルを見れば、そこで穫れたものが汚染されていることは残念ながらおそらく間違いない。

チェルノブイリなら移住の義務が生じるか、移住する権利が与えられるような放射線量の高いところに住み、外部から放射線を浴び続けている子どもたちに、さらに内部被曝を強要するなんて、あってはならないことだ。

地産地消は大事だが、今はそんなことを言っていられる事態ではない。

教育関係者になぜそれが分からないのか。

まず第一に子どもたちを疎開させてほしいが、いろんな事情でどうしてもそれができないのなら、せめて汚染のない食べ物を子どもたちにまわすような仕組みを早急に作らないと、ほんとうに取り返しのつかないことになる。