2009年3月28日土曜日

クニンガン


10日間のガルンガンの終わりを告げるクニンガンの日である。この日はみんな正装して、お供えを持ってお祈りにいくようだ。街中正装した人々で華やかである。

ガルンガンのお休みが終わると、月曜日からは学校なども平常に戻るらしい。祭事に明け暮れるバリの人々である。

2009年3月26日木曜日

ニュピ体験記

件のニュピがやって来た。ニュピというのはバリで使われている3つの暦のうちのひとつ、サコ暦の新年に当たり、悪霊が徘徊する日なので一切外出が禁じられ、家で静かに過ごさなくてはならない。本来は火の使用も禁じられ、食事も含めてあらゆる活動を停止し、瞑想して過ごす一日らしいが、最近はその部分は緩くなっているらしい。それでも、外出禁止なので当然のことながら街の機能は全面的にストップする。人々は食糧の買いだめにスーパーに走る。

ニュピ前日は、村の辻やそこここにブト・カロ(邪鬼)へのお供え物が置かれ、夕方から鳴り物をガンガン叩いてブト・カロを退散させる。本来ならばオゴ・オゴと呼ばれるブト・カロを模した張り子をもって練り歩く、という行事があるそうなので楽しみにしていたのに、今回は4月に控えた選挙への治安上の配慮から、オゴ・オゴはないのだそうだ。まったく残念である。

さて、当日は朝から快晴であった。静寂の中で、私は誰とも喋らず、次から次へと本を読んで過ごした。食べ物の買い置きをし損なったので、家にあるものを質素に食べた。日が沈んだあと、真っ暗な部屋でぼーっとしていたら、見回りに来た管理人さんご一家が心配して、カーテンを閉めて灯りをつけなさい、と教えてくれたので、言われたとおりにしてまた本を読んだ。街灯のない暗月の次の夜は本当に真っ暗である。そのかわり星がよく見えた。こんな「謹慎」のような沈黙の一日というのも、たまにはいいものですね。

さて、翌朝はさすがにうずうずして、朝一のヨガのクラスに出るべくいさんで6時半頃家を出た。ところが、ヨガのクラスのチケットを買うために、銀行のATMでお金をおろそうと思ったら、どこも動いていない。考えてみれば当然なのだが、ニュピのためにATMも全部ストップしていたらしい。結局朝8時くらいになって、ようやく銀行のエンジニアの人がATMを再開しに来たところをつかまえて、お金をおろし、次のヨガのクラスに参加した。みなさん私と同じく活動したくてうずうずしていたと見えて、クラスは大盛況だった。

2009年3月18日水曜日

ガルンガン

ペンジョール

ガルンガンがやって来た。バリは複雑かつ精緻な暦のシステムを持っていて、西洋暦の他にウク暦というのとサコ暦というのがあり、すべて平行して使用されて いる。そしてガルンガンというのは210日ごとにめぐってくるウク暦の正月だそうだ。ガルンガンの10日後がクニンガンである。私が今回バリにやって来た のは前回のクニンガンの翌日だったから、ウク暦の1サイクルを私はバリで過ごしたことになる。

ペンジョールの下にはポストのようなお供えの台

さてこのガルンガンとクニンガン、日本のお 正月とお盆を合わせたような行事である。まずペンジョールという竹で出来た「のぼり」のようなものが各家の前に立てられる。これは門松によく似ている。車 のナンバープレートのところにもお飾りが置かれるが、これなんかもしめ縄によく似ている。店も学校も休みになって街中静けさに包まれ、午後からは獅子舞 そっくりのバロンが門付けをして街を練り歩く。どうです?日本のお正月によく似ているでしょう。

門付けをしながら練り歩くバロン

さらにこの行事は、ご先祖様の霊をあの世から迎え入れて期間中おもてなしをして過ごし、最後はあの世にお送りするものであるという。まったくお盆そのものではないですか。

子どもたちによるバロンも数多く出回る

さ て、今 回は西洋暦で言うと3月18日がガルンガン。3月28日がクニンガン。さらにその間の3月26日にニュピという日が入る。このニュピというのはサコ暦の新 年に当たるというからまたややこしい。ニュピは悪霊が跋扈する日なので、外出が一切禁じられ、家の中で静かに過ごさなくてはならない。本来は料理や食事も 含め一切の活動が禁止され、瞑想して過ごす日であるという。悪霊にこの村に人間はいない、と思わせてやり過ごす、ということらしい。もちろん観光客も外国 人も例外ではない。さてどうなりますことやら。

2009年3月13日金曜日

サヌールへ


ペーパードライバーの私がモーターバイクでの遠出の練習を重ね、先日はとうとう東海岸アメッドへ到達するという偉業まで果たした。が、未だ挑戦していないエリアがあった。それは南部である。首都デンパサールや観光地クタ、サヌールなどを擁する南部は、交通量が多くて怖いのである。

そこでまず、南部の中でも最も行きやすそうなサヌールから挑戦してみようと思っていたら、絶好の海日和がやってきたので、決行することにした。

ドライバーのJに道を教わり、「簡単、簡単」の声に励まされて出発する。途中までは田舎道をトコトコ走る感じで快調だった。しかし大きなバイパスに出てから雲行きが怪しくなる。車やバイクが入り乱れて何車線にもなって走る。怖い。しかも一方通行である。帰りは来た道を戻ればいい、という方程式が通用しないではないか。それでも、その交通量の激しいバイパスをウパチャラの行列がゆうゆうと通り過ぎていったりするところは、さすがバリである。そしてどうにかサヌールへ到着した。

サヌールは8年前に1泊したきりで、記憶もおぼろげである。かつてもてはやされて今はさびれた観光地、というイメージが強かったが、静かで物売りもしつこくなく、なかなかどうして悪くない。涼しい並木道を走るのは気持ちいいし、おしゃれなカフェでちらちら揺れる木漏れ日を眺めながらボーッと過ごすのも楽しい。浜辺を散歩して、海風に吹かれ涼んでいたら、フローレスの出身でバリで働いているという、ポルトガル系の名前を持つ青年に話しかけられた。日本へ3度行ったことがあるという。なかなか達者な英語を話す。

帰り道はやはり大迷いに迷ったが、まあ今日中に帰り着ければよしとしようと開き直った。途中の村ではオダランらしきウパチャラに遭遇し、神社からあのきらびやかなガムランの調べが聞こえてきてうっとりする。これだからバリはやめられない。結局30分のところを1時間強で帰り着いたのだから、まあまあ上出来である。

後でJに「サヌールへの道は簡単じゃなかったよ」と言ったら、「それは道を間違ったんだよ」と言われたが、一体どこをどう間違えたのか、未だによく分からないなあ。

2009年3月11日水曜日

再会


昨年8月、ジョグジャカルタのインドネシア語学校のホームステイ先で知り合ったMKちゃんが、突然、大学の春休みを利用して日本からご学友の皆さんとバリに遊びに来た。

MKちゃんと言えば、偶然にも私の母校でインドネシア語を専攻する学生さんであり、インドネシア語が「おはよう」と「ありがとう」しか分からずホストマザーとコミュニケーション不能で部屋で寝たふりをするしかなかった私を救い出してくれた恩人なのであった。またジョグジャの母とも言うべきIさんの下で働く、愛すべき生粋のジョグジャ人ドライバーNさんのファンクラブ会長でもある。その天然ぶりで知られ、数々の名言を残してもいる。さて半年振りの再会やいかに。

バリ名物バビグリン(豚の丸焼き)屋で…
MKちゃん「アユン川のラフティングを申し込もうと思ったんですけど、私3メートルしか泳げないので、お母さんに猛反対されてあきらめました」
私「3メートル??」
MKちゃん「はい。私これでもスイミングスクールに3年通ったんです。それで3メートル。1年に1メートルですね。残念です」
私「………」

天然ぶりは健在であった。

2009年3月8日日曜日

クタビーチホテルへようこそ


仕事が閑なのをいいことに、読書三昧の日々を送っている。ほぼ1日1冊の割合で読んでいるが、最近読んだ中では「クタビーチホテルへようこそ」(古谷野洋子著/新風舎)という小品が個人的に良かった。

「クタビーチホテル」という伝説のホテルに興味を持った著者が、このホテルを巡る二冊の本を基に関係者へのインタビューを進めるうち、そこに繰り広げられた人間模様が明らかになっていく、というもので、その時代背景がまさに私が憧憬する1930年代のバリなのである。

実は「クタビーチホテル」にはかねてから興味を持っていた。半年ほど前、ネカ美術館の写真展示室で、1930年代のバリの芸能を写した素晴らしい一連のモノクローム写真を見た。そこには伝説のクビャールの踊り手マリオが子どもに稽古をつける姿や、ケチャの発展に大きく貢献したという偉大なるバリスの踊り手リンバックのまさに神がかった姿が映し出されていて、私は随分興奮したものである。その写真の出所を見ると、”Our Hotel In Bali” (Louise Koke著)とあった。調べてみると、若いアメリカ人夫妻(コーク夫妻)が資金もホテル経営の経験も知識もないままにいかにして1930年代にクタ初のホテル「クタビーチホテル」を開いたかという物語であるという。いつか読んでみたいものだと思っているうちに、先にこの「クタビーチホテルへようこそ」に巡り会った。この本が基にしている二冊の本のうち一冊がその”Our Hotel In Bali”であり、もう一冊はK’tut Tantriという人が書いた”Revolt In Paradise”という本である。

この本によると、「クタビーチホテル」は”Our Hotel In Bali”の著者コーク夫妻と”Revolt In Paradise”の著者クトゥット・タントリのパートナーシップで始まったが、後に両者の関係は決裂し、分裂して、それぞれがそれぞれの「クタビーチホテル」を目と鼻の先で運営するに至ったらしい。つまり、「クタビーチホテル」は2軒あったという。

このクトゥット・タントリなる人物がまた興味深い。実はこの人、アメリカ人女性である。アメリカで観たバリの映画に心引かれ、全財産を持ってバリにやって来たが、当時のバリを支配していたオランダ人官吏の干渉を嫌い、バンリの王家と巡り会ってラジャ(王)から家族同然に受け入れられ、この名前を拝命した、という。本名はヴァンニーン・ウォーカー、又の名をミス・マン、ミュリエル・ピアソンといい、日本支配時には抗日レジスタンス運動に参画し、インドネシア独立戦争時にはインドネシアのために闘ってスラバヤ・スーと呼ばれた、という。何という破天荒な女性か。

コーク夫妻とクトゥット・タントリのそれぞれの著書の中で「クタビーチホテル」が言及されるとき、お互いの元パートナーの話はまったく無視されていて、「クタビーチホテル」が2軒あったことなどももちろん言及されていないようだ。ただお互いと思われる人物はそれぞれ名を伏せて登場していて、それによるとクトゥット・タントリはコーク夫妻のビジネスを裏で大分妨害したらしい。燃えるような赤毛からミス・マン(「マン」はバリ語で猫のこと)と呼ばれた彼女の、気性の激しさが伺えるエピソードである。

著者はこの2冊の本に加えて、”Bali, A Paradise Created” (Adrian Vikers著)、”A House In Bali” (Colin McPhee著)などの文献にあたり、更に関係者たちにインタビューを試みるが、たまたま出会った老人が「クタビーチホテル」の元コックだったり、たまたまコピー屋で会った人がクトゥット・タントリの晩年を知っていたり、とバリらしい「偶然」に導かれていく。この過程もまた面白い。

この「クタビーチホテル」を巡るエピソードを通して、1930年代のバリという時代が見えてくる。この地に魅かれて移り住んだ西洋人芸術家たち、オランダ支配、バリの王族、戦争の影、日本軍の上陸…。その後第二次大戦に突入し、コーク夫妻とクトゥット・タントリそれぞれの夢の結晶「クタビーチホテル」は影も形もなく破壊された。西洋人たちは本国へ逃れたり、日本軍の収容所に入れられたり、そのままバリに残ったりとそれぞれの末路を辿った。「クタビーチホテル」はまさに1930年代のバリを象徴する存在だったのだと思えてならない。

クトゥット・タントリがその後どうなったのか明らかでないが、彼女に関するエピソードの中で私がとても心引かれたことばがある。彼女にバリ名を与えたラジャの娘にあたる老女の証言である。

「ミス・マンはラジャに恋してしまったの。ラジャが行く所ならどこにでも付いていった」

「ミス・マンはインドネシアのムルデカ(独立)のために闘った。ミス・マンはインドネシアに恋していたからね。ラジャとインドネシアに」

日本軍の拷問にも耐え抜いて、インドネシアの独立に尽くした、破天荒で気性の激しい彼女の、強さの源が見えた気がするからだ。

2009年3月5日木曜日

Eat, Pray, Love


二人の友だち、オランダ人のRさんとアメリカ人のLさん(いずれも女性)に別々のタイミングで同じ本を薦められた。ベストセラーになっている”Eat, Pray, Love”というその本を、海辺での休暇中に一気に読んだ。

ライターを職業とする著者の女性が私的な体験を描いたもので、人も羨むようなキャリアと結婚生活を持つ彼女が、30歳を目前に「そろそろ子どもを持って家庭に納まる」という夫から期待されている役割をどうしても受け入れられずに悩んだ挙げ句、家を出る。前後してソウルメイトのような若い恋人ができるが、強く惹かれ合いながらも、二人の関係はうまくいかない。離婚問題の泥沼化と恋人との問題で精神的に参った彼女は、仕事を辞め、1年間の旅に出ることを決意する。
最初の4ヶ月はイタリア、ローマで、実用性はないけれどもその音が好きだというだけの理由でイタリア語を学び、イタリアの食を堪能する(Eat)。
次の4ヶ月はインドのアシュラムで、瞑想とヨガの禁欲的な日々を送る(Pray)。
最後の4ヶ月はバリ島ウブドのバリアン(メディスンマン)のところに通って、英語を教えながら、彼のアシスタントのようなことをする。そのうちブラジル人の男性と知り合って恋に落ち、現在はアメリカとブラジル半々で暮らしている(Love)、という話である。

結論から言うと、私は勧めてくれた友だちほど刺激を受けなかったのだけれども、驚いたのは自分に関係のあることが余りに多かったことである。

その1. 実は私の大学の専攻はイタリア語である。それも音が好きだというそれだけの理由で選んだ。
その2. この本を読む直前まで、ヨガ教師認定取得コースの通訳の仕事に入っており、ヨガとか瞑想という話題はとても身近なものだった。
その3. バリ島ウブドの部分は、まさに今の自分の生活圏である。
その4. ブラジルは私が大学の卒業式の翌日から1年間を過ごした愛着のある国であり、第二の故郷と慕っている場所である。

そういう意味では、このタイミングでこの本を読んだことに不思議なご縁は感じるのだが、なぜ私にとってそこまで刺激的ではなかったのか。
勧めてくれた友だちほど英語の言葉の妙を味わえないからか。
離婚や失恋の心の痛手は当人にとってみたら地獄の苦しみだけれど、世界で多くの人たちが苦しんでいる戦争や飢餓や天災や犯罪や病気というもっと理不尽な問題から見ればちっぽけなことだと思ってしまうからか。
1年間の旅の体験を書く、という出版社との契約付きの旅の仕方にマーケティングの匂いを感じてしまうからか。
著者が親友になるバリ伝統医療のヒーラーの女性が、実際会ってみたら感じが悪くて失礼だったからか。
多分そのどれも理由の一部ではあるのだが、最もしっくりする理由が見つかった。
つまり、旅文学としては沢木耕太郎の「深夜特急」が面白すぎるのである。

まあでもこれはあくまで私の好みの問題で、一人の女性がもがいてもがいて出口を見つけていく過程を正直に見つめた記録としては、人の心に響くものがあるのだろう。私にとっては、好きなことは実用性など考えずやっちゃっえ、という彼女の痛快な決断の部分の方が刺激になったけれども。

そんなわけで、興味のある方はご一読ください。