2009年4月14日火曜日

生理の社会的プロトコル


生理の話である。
いきなり何かと思われるかも知れないが、まあ聞いていただきたい。

日本の社会では生理というのは秘すべきことで、女性は生理中だというのを大っぴらに男性に言ったりはしない。

これがバリではどうか。その辺のプロトコルが今ひとつ分からないのである。というのも、バリでは生理中の女性は神社に入ることができないので、そういう注意書きが神社の立て看板に書いてあるし、また「生理中の女性は入ることができません」と男性に言われたりもする。バリの人々は神社に行く機会はしょっちゅうあるわけで、そうすると女性が生理のために行けない機会もしょっちゅうあるということで、そうなれば、生理中であるということは男女間でオープンな話題なのではないかと推測する。

この推測を後押しする材料として、バリでは(インドネシアでは)日本や西欧社会でタブーとされるプライバシーに関わる質問がとてもオープンに交わされる、ということがある。「どこへ行くの?」「何歳?」「結婚してる?」「恋人いる?」は挨拶代わり。「家賃いくら?」「給料いくら?」「これいくらしたの?」というのも普通である。ということを考えると、生理なんてタブーでありえないような気がする。

更なる材料として、ここにガルーダ航空の機内誌に掲載されていた面白いエッセイがある。西欧文化環境で育ったインドネシア人女性ジャーナリストによって書かれたこの痛快なエッセイによれば、政治、宗教、セックスといったセンシティブな話題は西欧社会では避けるべきものだが、インドネシア人はこうした話題が大好きで、女性が男性の同僚に自分が生理中だと言うことも珍しくない、という。彼女曰く、自分はバイカルチュラル環境で育ったので、西欧人にもインドネシア人にもなれるけど、この面では断然インドネシア人であることを選ぶ、西欧社会ではこうした話題を職場でしようものならハラスメントとして訴訟問題になりかねないけど、それを話さないで一体何を話すわけ?楽しくないじゃん!というわけである。痛快である。

そんなわけで、私はバリでは女性が男性に生理中であるということはタブーではないに違いない、という推測のもとに行動していた。

なぜそんな仮定が必要だったかというと、仲良くしているおじさんとかお兄さんとかの男性の知り合いにオダランなどの祭礼に誘っていただいたときに、生理で行けなかったりすると、どうお断りするか、という問題が生じるのである。私は大抵楽しみにしていて、行けないのは本当に残念なので、適当な理由をつけて断ったと思われるのは心外である。なので、行きたいのに生理で行けないのだ、と正直に言うことにしていたのだ。

ところが、先日思わぬ事態が発生した。

敬愛するガムランの先生がバリのヒンドゥー教の総本山ブサキ神社のオダラン(神社の創立記念祭)に誘ってくださった。オダランのような祭礼はただ見学するよりも、地元の人と一緒に参加させていただく方が断然興味深いので、とても楽しみにしていたのに、4日前に予定外の生理が来てしまった。この4日目というのが微妙であった。終わっていると言えば終わっているが、完全には終わっていない。どうしたものか悩みに悩んだ挙げ句、やはり他の方々に迷惑がかかってはいけないと思い、泣く泣く辞退することにして、先生に携帯メールを送った。
「先生、明日はとても楽しみにしていたのですが、生理で参加できなくなってしまいました。とても残念です。」
すると、先生から電話がかかってきて、
「行けないの?」
とおっしゃる。
「はい、先生、生理だと神社に入れないですよね。」
と言うと、
「大丈夫だよ」
と先生。
私はびっくりした。え?大丈夫なの?そうか、意外とあのルールは厳密じゃないのかも知れない。何たって地元の人がいいって言うんだから。私はすっかり気が軽くなって、
「大丈夫なんですか?それなら行きます!」
と元気よく返事をした。

そして翌日、すっかりお参りが済んだ後、先生が、
「そう言えば、リエ、昨日は何だったの?よく分かんなかったんだけど、ええと(と私の送ったメールを見直す先生)、これ、“セイリ”ってなに?」
え!?どういうこと?私は頭の中がぐるぐるまわった。待てよ、“生理”っていうインドネシア語はバリ人のKdちゃんもKtさんも使っていたから間違っているはずはない。ということは、先生はバリ語では知ってるけど、インドネシア語では知らないの?それより何より、先生は私が生理中だってことを知らずに、「大丈夫だよ」って言ったんだ。じゃあ本当は大丈夫じゃなかったのかも知れない。どうしよう!と思ったが、後の祭りである。私は覚悟を決め、すべてなかったことにすることにした。
「先生、それは忘れていいです!」
と叫び、無理矢理話題を変えた。そして心の中で、ブサキの神様、私はセイリなんかではありませんとも、と強弁したのだった。

ブサキの神様が大目に見てくださることを祈るばかりである。

2009年4月6日月曜日

陰陽師からバリへ

バリの神社は日本の神社と雰囲気がよく似ている

バリ島は古くから多くの文化人類学者や芸術家たちを惹き付けてきたし、最近では多くの観光客を惹き付けている。文化人類学者にとっては、そのヒンドゥー教と土着宗教の混合した独特な宗教と稲作に根差すめくるめく祭礼の数々や生活様式が、芸術家にとっては、そのエキゾチックで洗練された、神々(そして人々)を楽しませるためにあるガムランの音や舞踏、演劇、絵画、彫刻が、そしてすべての人が‘芸術家’とも思えるようなその‘芸術的’な生活のあり方が、そして観光客にとっては(特に日本人には昔の日本を見るような懐かしさを感じさせる)美しい棚田や咲き乱れる花々、空気の中に漂う甘い花と線香の香り、微笑みを絶やさない褐色の肌をした美しい人々、リーズナブルな‘癒し’のスパが、その魅力であるかも知れない。惹き付けられる人の分だけ、その理由はある。

では私がこの島に惹かれる理由は何かと考えてみたときに、それは上記のすべてであるけれども、やはり魅力的な音楽と舞踏がある、ということが大きい。いつも音楽に惹かれて旅をしてきた。沖縄の音階(バリのと似ている)に惹かれて沖縄へ、ブラジル音楽に恋をしてブラジルへ(そして恋は永遠に冷めない)、ニューオーリンズのローリングピアノに惹かれてニューオーリンズへ(と、ここで私は”Dr. John Plays Mac Rebennack”をかける。ああ、ガンボ料理を食べながらころころ転がるニューオーリンズピアノを生で聴きたいものだ)。

もうひとつ大きな要素として、これはもっぱらここ数年私が興味を持って追いかけてきたことなのだけれども、端的に言えば、この島が「見えない世界に対峙する知の体系を持った社会」であるということが挙げられる。

辻に置かれたお供え物

数年前、ある巡り合わせから「陰陽師」に出会った。岡野玲子の漫画と夢枕獏の小説である。この作品は平安時代の実在の人物、安倍晴明を主人公にしたフィクションなのだけれども、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」に題材を取っていて、ものすごくおもしろい。「今昔物語」や「宇治拾遺物語」なんて学校の歴史の授業で名前だけは習ったけれども退屈な「古典」だと思っていた。ところがどっこい、意外に通俗的だったり、奇想天外な話やまがまがしい話があったりして、生き生きとして本当におもしろいのである。これは「古事記」や「日本書紀」にも言えることなのだけれども。

さて陰陽道というのは、大和朝廷の頃日本に伝播した「国家安寧のために使用された秘宝秘術」であり、「蜥易、八卦、五行、十干十二支、天文、遁申、暦法、そして数々の呪り、巫術、呪禁などの複合技術」であって、飛鳥時代末期、天武天皇の時代には律令体制に組み込まれて「陰陽寮」という官庁が誕生した。陰陽寮は、陰陽道(国家・禁中に関する土地の吉凶判断や占いを行う)、暦道(暦作りを司る)、天文道(天文・気象を観測)、漏刻(時刻を管理)に分かれ、ここに務める陰陽師たちは国家公務員だった。(「安倍晴明 陰陽道 音霊占い 六神之奥義秘法」真山英子監修・執筆/扶桑社刊より要約・抜粋)

歴史の教科書にも登場する安倍晴明は、この陰陽寮で活躍した陰陽師であり、不思議な力を持っていたと言われ、謎の多い人物として知られる。

私はこの、闇がほんとうの闇だった時代、魑魅魍魎がうごめく百鬼夜行の世界、呪術や魔術合戦が繰り広げられる世界、天体の運行と人々の生活が密接なものであった時代、つまり「見えない世界に対峙する知の体系を持っていた」かつての日本にすっかり魅了され、安倍晴明を巡る旅までしてしまった。(そのときの記録はこちらです。興味のある方はご覧ください。)
http://picasaweb.google.com/riebrasileira/tDGenD#


バリのカレンダー

日本の社会は‘発展’の過程で闇を追いやってしまったように見える。陰陽師が活躍した時代は遠い過去のものである。

ところが、バリではその世界が21世紀の今も生きている。人々は生活の3分の1くらいの時間を神々に感謝し、悪霊をなだめることに費やし、善と悪のバランス(まさに陰陽である)を取って生きている。バリ版陰陽師とも言うべき僧侶は、複雑な暦の体系に通じ、吉凶を占い、マントラを唱え手印を結んで儀式を司り、悪霊を祓う。バリアン(シャーマンとも呪術師とも訳される)は呪術や医術を司る。黒魔術が暗躍し、白魔術が応戦する。チャロナランという、祭礼のときに行われる善と悪の拮抗を表す劇の最中に、人々はトランス状態に陥る。僧侶や呪術師の「虎の巻」であるロンタルという古文書には、「暦のことのみならず、儀式、医学、魔術、歴史、文学、音楽、舞踏など、生活と芸術に関するあらゆる情報が記されている」(「バリ島不思議の王国を行く」大竹昭子・内藤忠行著 新潮文庫刊)。

バリの社会は日本が別の‘発展’の仕方をしていたら、こうなったかも知れない社会、パラレルワールドのようにも思える。まるで陰陽師の時代が現代に蘇ったかのようで、私にはまったく興味が尽きないのである。

2009年3月31日火曜日

インターネット大騒動 その1:携帯電話会社との契約

ようやく入手したSIMカード

ようやく決着した。

この1週間、携帯電話経由でインターネットに接続するために東奔西走していたのである。最後は事態が紛糾し、私のストレスレベルもピークに達したが、ようやく一件落着である。

事の起こりは隣人の引っ越しであった。私の下宿先は隣人のインターネット環境をお金を払って共有させてもらっていたのだが、その隣人が突然引っ越してしまったことで、我が家のインターネット環境がなくなってしまったのだ。

遠隔で仕事をしている身にはインターネット環境は必須である。これは何とかしなければ、と以前友だちに聞いた、携帯電話経由でインターネットに接続する方法を試してみることにしたのだった。

ところがこれが一筋縄ではいかなかった。まず情報を収集する段階で、言葉の壁が厚く立ちはだかった。私のインドネシア語はそんな複雑な話ができるレベルではなく、携帯電話会社の人の英語もそんなレベルではない。ウェブサイトを見ても、すべてインドネシア語である上に、その辺りの情報が見当たらない。更に、人によって言うことが違う、何がほんとうか分からない、というバリの典型的な問題もあった。

それでもどうにか基本的な情報を入手し、契約することになった。ところがウブドでは契約できず、クタに行かなければいけないという。クタは遠すぎるので、何とかならないかとごねてみると、隣のギヤニャールなら何とかしてあげるというので、早速翌日ギヤニャールに行くことになった。

翌日、必要書類を揃えてギヤニャールに行くと、私のクレジットカードが彼らにとって見慣れない日本発行のものだというところで一悶着起きる。クレジットカードというのは国際的に通用するもので、私は現にいろんな国で使ってきたけど何も問題はなかった、といくら力説しても、今まで扱ったことがないから分からない、と言われ、結局スラバヤのチームが確認して、後日電話連絡をよこすということになり、取りあえず契約手続は完了した。

三日後、スラバヤチームから、私のSIMカードが翌日アクティブになる、という連絡が入った。今度はモデムの入手である。早速電子機器店に行き、その携帯電話会社のSIMカードが使えるモデムを注文したいというと、先日問い合わせたときは3,000円くらいと言っていたのに、何と1万円以上するというではないか。しかしここまで来たらもう引き返せない。仕方なく注文した。

インターネット大騒動 その2:モデムとコンピュータの設定

非常に高価なモデム

二日後、アクティブになっている「はず」のSIMカードとコンピュータを持って、モデムを受け取りに電子機器店へ行く。店の人は自分で設定できるのか、といぶかしんでいたが、携帯電話会社の社員Aは「クタのカウンターに行って設定をしなければならない」と言い、社員Bは「SIMカードとモデムを入手したら、USBで繋げばすぐにインターネットに接続できる。設定なんて必要ない」と言っていたので、まず繋いでみてだめだったら、クタに行くしかないだろう、と思っていた。電子機器店の店頭でモデムのドライバをコンピュータにインストールし、モデムにSIMカードをセットして、USBで繋いでみたが、接続できない。店の人がモデムの取り寄せ元である知人に問い合わせてくれ、色々やってみたのだがうまくいかない。結局午後3時までにその知人のいるデンパサールまで来るなら、設定を手伝ってやってもいいというので、急遽デンパサールへ行くことになった。

デンパサールには行ったことがない。交通量が多くて怖いし、一方通行が多くて道が複雑なのだ。だが背に腹は替えられない。午後3時までに所定の場所に行かなければならない。まるで身代金の受け取りのようである。私はお昼を食べる時間もなく、デンパサールへ向かった。

どうにか時間内に待ち合わせの場所に着き、その知人が2時間近くすったもんだした挙げ句、どうにか接続できるようになった。このプロセスを経てようやく分かったのだが、(1) SIMカードは、携帯電話会社がアクティブにした後、ユーザ側でアクティブにする必要があり(そんなことは携帯電話会社の人は教えてくれなかった)、(2) 更にインターネットを使うには”GPRS”というものをアクティブにするよう携帯電話会社に依頼するがあり(そんなことも携帯電話会社の人は教えてくれなかった)、(3) 更にコンピュータ側でモデムの設定をするには特定のパラメータを入力する必要があった(こんな重要なことも携帯電話会社の人は教えてくれなかった)のである。「設定は必要ない」なんて言ったのは一体どこの誰!?(答:携帯電話会社の社員)

ああ、これでようやく使えるようになった、と胸を撫で下ろしたのも束の間、本当に大変だったのはこの後だったのである。

インターネット大騒動 その3:法外な料金に仰天

デンパサールへ

家に帰って接続をチェックしてみると一度は繋がったのだが、数分後には繋がらなくなってしまった。翌日はニュピだったので、そのためにシステムがダウンしているのかと思い、ニュピが明けるのを待って再度試してみたが、やっぱり繋がらない。コールセンターに問い合わせてみると、私の「残額」が足りないために、インターネットに接続できない、と言うではないか。この契約は後払いのはずなので、「残額」の意味が分からない。いくら説明を求めても回答が得られず、向こうが言うには、私はすでに約1,200円を使っていて、残りが20円しかない、インターネットを使うには最低50円の残額が必要だ、というのだ。この「残額」の概念が相変わらず理解できないが、私がすでに1,200円使ったというのに仰天した。私がしたことは接続のチェックだけで、接続時間は全部合わせても5分にも満たない。5分で1,200円もするならインターネットなんて誰も使えないではないか。いくらそんなはずはない、と言っても、担当者は聞く耳を持たず、電話は途中で切れてしまった。

すぐにウブドのカウンターに行って聞いてみると、そこでもコールセンターに問い合わせ、同じ回答を返すばかりである。5分で1,200円もするんですか、そんなに高いんですか、と聞いても、そうだという。まるで狐につままれたようである。どう考えてもおかしいが、そうだと言われればのむしかない。そんなに高いのなら使えない、契約を解除するしかない、1万円以上もするモデムを買ったのに…と途方に暮れて帰ってきた。

ところが念のため、同じ携帯電話会社の同じプランを使っている友だちに聞いてみると、5分で1,200円なんてあり得ないよ、きっと向こうのシステムの不具合だよ、という答が返ってきた。私たちのプランは月に250MBまで定額990円というものなのだが、彼はメールの送受信も(添付ファイル含め)ウェブサイトのブラウジングも普通にしているけど、定額を超えることはほとんどない、というのだ。それを聞いて私はやっぱりこれはおかしいと思い直し、再びコールセンターに問い合わせることにした。

ところが、である。このコールセンターの対応がまるで悪夢であった。とにかくこちらの説明を最後まで聞かない。どんなに説明しても、「残額が足りないから使えない」の一点張り。契約状況の確認を求めても、答がない。終いには途中で電話が切れる。かけ直すと違う人が出て、さっきの人に代わってほしいと言っても、それはできないという。仕方なく一から説明し直していると、また電話が切れる。この繰り返しで、私は5人くらいと不毛で不愉快極まりない会話をした挙げ句、コールセンターで解決することは諦めることにした。

残る手段は、クタのカウンターに行くことであった。何度も言うが、クタは遠い。そして交通量が多くて怖い。それでももう他に手がない。それでだめならもう諦めて、即刻契約を解除し、モデムは売るか、他の携帯電話会社を使おうと決心した。

インターネット大騒動 その4:解決

ついにクタへ

翌朝、意を決してクタに出向いた。そして、何と問題は解決したのである。

有能で思慮のあるカウンターの女の人がてきぱきと調べてくれたことによると、何と私は、その「月250MBまで定額990円」のプランに入っていなかったので、その定額パッケージ外の値段が適用されていたというのだ。衝撃である。向こうの言い分では私がリクエストしなかった、という。唖然とした。契約の時に誤解があったようで、次の月からはそのパッケージにしますので、と先方は言うが、納得いかない。他にも請求の締めの日付について私が契約のときに受けた説明が間違っていたことが発覚し、そのために私は2週間分も損をすることになった。が、様々な誤解は私のインドネシア語力不足に負うところも多いし、ここがインドネシアである以上、先方の英語力不足は責められない。結局彼女の裁量と双方の譲歩により、問題は解決した。私には彼女が女神様に見えた。

この話を、同じプランを使っていて、色々相談に乗ってもらったオーストラリア人のSさんにすると、「典型的なバリの問題って感じだね。バリ人って愛すべき人たちなんだけど、社員教育がされてなくて、それなのになぜだかみんな自分は正しいと信じてるんだよね!」という的を射たコメントが返ってきた。

私も今回の騒動で大きな教訓を得た。この国では、楽をして電話で解決しようと思わないこと。とにかく一番信頼できそうなところに直接出向くのが、遠くても結局は一番の近道なのだ。つまり最初からクタに行っていれば、ほとんどの問題は回避できたのである。

それでも、ずっと怖くて行けなかったデンパサールとクタに初めて行けたのは収穫だった。問題は人を成長させる。転んでもただでは起きないぞ、と肝に銘じている。

2009年3月29日日曜日

A House In Bali

コリン・マックフィー住居跡からの眺め

1930年代のバリに心惹かれる、という話は事ある毎に触れてきた。二つの大戦にはさまれたこの時代は、ドイツ/ロシア人画家/音楽家ウォルター・シュピース初め、メキシコ人画家コバルビアス、オランダ人画家ルドルフ・ボネ、人類学者ベイトソン・ミード夫妻など、この島に魅了された西洋人芸術家、人類学者たちが島を訪れ、長期滞在し、この島の芸能に影響を受けるとともに、影響を与えた時代であり、それぞれがそれぞれの分野で様々な著作を残している。

そんな中で、ガムランの音に魅せられてバリ島にやってきたカナダ人音楽家コリン・マックフィーの著書「A House In Bali(邦題:熱帯の旅人〜バリ島音楽紀行)」(大竹昭子訳 河出書房新社刊)は、私の興味の直球ど真ん中の内容であり、大変興奮した。いつまでも読み終わりたくなくて、結局2度読み返しただけでは飽きたらず、コピーをとって、今も何度も読み返している。

コリン・マックフィーは駆け出しの作曲家だったが、あるとき偶然レコードで耳にしたガムランの音に魅了され、はるばるバリ島までやって来る。そしてついには当時はド田舎だったウブド近郊のサヤン村に家を建て(A House In Bali)、通算で5年間滞在する。あちらの村に古い楽器が眠っているらしいと聞けばキャンプをしてでも探しに行き、こちらに古い曲を知っている人がいると聞けば教えを請いに行き、様々な音楽家や舞踏家や芸能のパトロンである王たちと親交を結び、解散した楽団を復活させたり、自分の村に新しい楽団を創設したり、舞踏家を育てたりしてしまう。この本にはそんなエキサイティングな日々が、音楽家の鋭い耳と感性で、実に生き生きと、詩情とユーモア溢れる筆致で綴られている。

この人の素晴らしいところは、この地域の通商用語であり比較的習得が容易なマレー語だけでなく、マレー語が通じないサヤン村に住んだために、複雑な敬語体系があって習得が難しいと言われるバリ語まで学んでしまったところで、その彼の口から、地元の人々の会話が生き生きと描かれ、様々な曲の題名や劇の筋を解き明かしてくれるのだから、バリ文化の恰好の案内書でもある。

そのとき採集したバリ島中の音楽を、彼はその後20年余をかけて「Music in Bali」という「電話帳ほどの厚みがある」という大著にまとめ、後年はUCLAの音楽学科および民族音楽科の教授に迎えられたというが、こちらが学術書であるのに対して、本書の方は、まるで映画を観るように、彼の目を通して1930年代のバリが見えるような気がする。

数多い印象的なフレーズの中で、バリの音楽の本質を言い表していると思われる一節がある。少し長いが引用したい。

「 こうして毎晩様々な曲を聴き続けるうちに、バリの音楽の法則や形式や構造が、ようやくつかめてきた。私は村人とおしゃべりしたり、採譜したり、遠出していろんな音楽に出会ったりしながら、謎を解いてきたこれまでの道のりを思い返した。今やするべきことはすべてし尽くしたようだった。パズルのコマは収まるところに収まった。ミステリーは解決された。
 しかし本当にそうだろうか、という思いも一方にはあった。確かに私はバリの音楽について新たな原理と法則を手にしたようだった。そのみずみずしさや精巧さに私は興奮し、これまで集めた資料を元に、私なりにバリの音楽を分析して本に著したいと考えた。それを思うと思わず胸が高鳴った。だがルバの奏でる繊細な太鼓の響きや、新たな創作意欲を感じさせるロットリングのまばゆい旋律を聴いていると、バリ音楽の究極的な本質や特徴は、とらえようにもとらえきれないもののような気がしてくるのだった。」

だからこそ、今もバリの音楽は私を含め、多くの人々を魅了せずにはおかないのだと思う。

大竹昭子さんの翻訳がまた素晴らしい。バリ島の文化に精通し、その方面の著書もあり、ご自身が素晴らしい書き手でもある訳者ならではの、深い理解と愛に基づく名訳である。

さて、彼が暮らし、当時はド田舎だったサヤンは、今や高級リゾートが立ち並ぶ一帯となっている。本書を頼りに彼の住居跡を探してみた。当たりをつけて、あるリゾートに聞いてみると、何と「ここですよ」と言う。今は改築されてリゾートの一部となっているが、お願いしてその家を見せてもらった。本書にある通り、「墓地の横のそそりたった崖の上」にあり、「建物は崖のきわに建っており、急勾配の屋根の切り窓から、険しい渓谷をうねっていく川の様子が、まるで飛行機から眺めるように見渡せた」。この景色は80年近く経った今も余り変わっていないのではないかと思われた。この場所で、この本に書かれている魅力的な光景の数々が繰り広げられたのだと思うと感動が込み上げ、私は心の中で、そこにいるような気がするコリン・マックフィーさんの魂に話しかけた。